23・10・28

 のぞみで東京を出て京都に向って走っている。2時間21分で着く。昔、特急が6時間余かかったことを思えば早いものである。東京駅を出るやシートをグルッと廻して4人でマージャンを始めたことがある。特注で作らせたジャン卓を手早く組み立ててジャラジャラと始めた。好きそうな他の客が時々覗いている中で京都駅までリャン・チャンはやったと思う。

 そんなことはどうでもいいが、便利になったもので、関西の人も日帰りで東京を往復、仕事ができるようになった。

 田中首相の列島改造論は地価の暴落を招き、福田さんの言う狂乱物価の世を現出したと謗られたが、私は新幹線や高速道路網を全国に張り回らそうという計画は途中で挫折をみたけれど、決して根本において間違っていたとは思っていない。

 冬ともなれば軒まで埋まるような雪深い田舎に育ったればこそ人一倍道の重要さを身に染みて感じていた田中さんならずとも地方に暮す人々の念願は交通手段の整備ではなかったか。

 急坂を駆け上がるような、目を見張るほどの経済成長に背中を押されて列島改造計画はスタートをしたが、東西を結ぶ新幹線と高速道路を造るにしても、共産主義国や独裁国家ならいざ知らず、民主主義の国においては呆れる程の手間と金を投ぜざるをえなかった。

 広々とした田畑の真中を何十米もの路盤をぶち抜けば、幾多の道路や水路が切断される。交差する道路や水路を下にくぐらせ、時に高架とし、又、田畑の交換分合をあま多の反対をなだめ、時には押し切って実現しなければならない。といって無闇に強権的な収用はかけられない。そういう関係者の苦労たるや大へんなものであったと思う。

 そのように新幹線でも高速道路でも直接の建設経費の外に関連事業の経費を要しているが、之等は元来新幹線や高速道路の建設費の中に含めて計算しなければならないものである。

 新幹線や高速道路が貫通した地域、とくに駅やインター周辺の発展は目ざましいものであったことは、例えば蛙の声ばかり姦しい駅が出来たといわれた新幹線の岐阜羽島駅の例一つをとり上げてみてもわかることである。新横浜駅周辺のビルやホテルの乱立を当時誰が予想したであろうか。駅が核となって新市街地が膨張を続けたのである。

 そもそも日本はあのいわゆる大東亜戦の期間中インフレ整備は殆んど行われていなかったので、戦後暫らくの間欧米諸国に比べて著しい立ちおくれが見られた。戦後かなり急テンポで進められた公共事業をもってしても、例えば道路などは舗装も不充分であって、イギリスが田舎の細い道路に到るまで完全舗装されていた状態に比べるべくもないのであった。

 私は、今まで何べんでも繰り返し言ってきたが、戦後日本の公共事業が諸外国に比べ過大であると指摘する議者の視点はこのような戦後スタート時点でのインフラ整備状況の大きな差を認識していなかったと思わざるをえないのである