23.4.12
この度の地方選は概括して民主党の惨敗に終った、とマスコミ各紙は報道している。知事は東京をはじめ現職九人が全員当選、民主党は岡田幹事長のお膝元の三重も破れるという始末である。
新聞によっては、震災現職に有利に、有権者は新鮮さより実績がという解説をしている。
菅政権は崩壊寸前のところ、巨大地震によって間一髪、寿命を延ばすこととなったが、もともと自民党の強い地方選においては、政権党としての力を示すことはできないままに終った。
もともと民主党は良く言えば右から左まで考え方に大へん幅のある政党であるが、じっとみればよくまァ一つの政党に納まっているなと思う程主義主張がバラバラである。だから、おおまかなマニフェストみたいなものは文章に描きえても、具体的な政策となると、なかなか纏まらないし、纏めようとするとあちこちぶれたりする。致し方ないところである。
この間、松本健一の「幕末の三舟」という本を読んでいたら次の一文があった。
海舟は政治的人間といえる。政治的人間は、歴史においてある政治的選択を迫られたときに決断をし、その決断に対して責任をとっていく。その場合に、それが正義であると信じるとか、感情的にそちらの方が近いからとかといった考え方ではなく、政治的理性によっていくつかある選択肢のうち民族の生存、国家の利益、国民の生活のことを判断基準にしてベターな選択をしなければならない。その結果、極端にいえば51パーセント対四九パーセントというぎりぎりの選択点もありえるので、その49パーセントを切るというつらい決断もしなければならない。それを非難されることも当然出てくる。そのつらい決断の責任を引き受けて選択をしていく人間が、あるべき政治家である。だから、「行蔵は我にあり」なのである。
菅首相と言わず、首相、首長に求めるのは、このような選択なのである。それが菅首相にはできていない。
議員は、行政の執行部に対するアンチテーゼとして、或いは評論家でもいいが、首長はそうはいかないのである。行政は、非常に良いこともなかなかない代り、非常に悪いことも少ない、要は、いろいろの選択肢のなかから決断をもって選び、決定し、実行することなのである。とくに災害対策のような火急を要する問題については、そうである。