江戸の人口は110万人で、世界一の大都市であったという。東京の赤坂プリンスホテルのB1の廊下に江戸と今の東京の地図が対比して貼られている。いずれも江戸城、今の皇居を中心とし、江戸城の外壕あたりまでのものである。注目すべきは、主な道路を含み、街区の構成が殆ど変わっていないことである。無論、道路の拡幅とかはあるにしても。

 興津要著の「江戸娯楽誌(作品社)」をと時々眺めている。三百年平和の江戸時代に町の人々が何を楽しみにしていたかの一端がわかって面白い。

 これによれば、私の好きな落語は、天文・永禄(1532~70)の戦国時代において武将の側近にあって咄の相手をしていたお伽衆(お咄衆とも)の話が始まりである。

 お伽衆の口演筆録(戯言養気集など)の流行を契機として、咄の趣味は大いに普及し、「百物語」、「私可多咄」なども出版されるに及んで、咄本の内容も複雑化した。そのうち、架空の笑語(はなし)を軽口、軽口ばなしというようになり、咄のおもしろさを効果的にむすぶ(オチ)の技術もみがかれるようになった。

 辻咄というのは街の盛り場にヨシズ張りの小屋を設け、演者は広床に上り机により、聴衆は床に腰をかけて聴き、咄が佳境に入った頃を見はからって銭を集めて廻るという庶民的な演芸だった。

 その後、武左衛門の事件(略)から70年間、殆ど絶えていた江戸落語も復興の時期を迎え、やがて、寄席興行が創始されるようになった。寛政年代、江戸で山生亭花楽(のちの三笑亭可楽)が下谷稲荷神社内で、大阪では初代桂文治が座摩社内で、いずれも寄席(よせ)興行をもよおしたという。

 もっとも寄席という言葉は江戸のもので、大阪では講釈場、席屋、席と称した。

 寄席の数は文化12年(1815年)には75軒、文政(1818~30)の末には125軒に増加したという。まさしく大衆娯楽の殿堂であった。

 ちなみに寄席の数は戦前ほどあったのに対し、現在は  に過ぎないが、落語家はお笑い芸人の一端にあって、戦前以上の活躍である。


                                   22・7・16