人口110万人、当時としては世界一の大都市であった江戸は武家の町で、50万余人の武家、50万余人の町方で、残りは寺社関係であった。

 ところが住空間でみると、武家地が69%、寺社地が15%で、50余万の町方は僅か16%の土地に暮らしていた。

 町方の人口の70%は長屋住いで、殆どの庶民は借家に住んでいた。長屋には表長屋、路地裏の裏長屋があって、表長屋は二階建ての一棟に、間口2間(3・6メートル)奥行4間半(8・1メートル)とか、間口3間(5・4メートル)奥行4間半というのが、3軒とか5軒連なっていた。裏長屋は、木戸をくぐって路地に入ると、板をのせたどぶ板(下水溝)が通じており、その両側に数軒から10軒前後の小さな家が連なっていた。1軒の広さは間口9尺(2・7メートル)奥行2間(3・6メートル)、いわゆる9尺2間で約3坪が普通であった。いまで言えば6畳1間のワンルームである。

 ところが、そのなかに人口の土間があり、へつつい(かまど)が添えられ、水桶も置く。だから実際に居間兼寝室として使えるのは4畳半ぐらいの広さでしかなかった。

 9尺2間は、戦国時代の雜兵(身分の低い兵)たちのため山城の麓につくられた根小屋の大きさであって、それが江戸時代に踏襲された大名屋敷の下級武士の住む長屋の大きさにもなっていた、という。

 今はどうだろう。アパートがマンションと名前を替えるようになって、住宅の面積も大きくなって来たが、小さいところで1戸当り20坪(4間、5間)程度、一寸大きくて30坪(5間、6間)ぐらいではないか。大きい方で、昔の表長屋の倍位の面積である。

 年間150万戸以上建てられていた日本の住宅は、今や半分以下となっている。戸数では余るくらいで、今、求められている住宅は、より広く、より快適で、できればより職場に近いところである。これには、当然交通手段の改善もからんでくる。例えば、静岡県の3島や沼津の新幹線の駅近くにマンションが随分沢山建ったが、ここから新幹線で東京に通う人が多くなったという。

 私が、国鉄総裁となった高木君(大蔵省1年後輩)に早く新幹線のパスを発行したらと言ったら、いや回数券を発行するのにも抵抗があるんだよと言って苦笑いしていたのが30年前である。大きな世帯は戦艦のようなもんで急回転はきかないのか、なと思ったが、今はどうなっているか。

 日本は衣食住のうち、土地の狭いこともあって、最后に残されているのが住の問題である。江戸の昔から変わらない課題だと片づける訳には参らぬ。何かと政治が働く場面だと思っている。(江戸のデータは中江克己「お江戸の意外な生活事情」(PHP文庫)から引用した)。