高等学校に入学したわれわれが時に通うようになった浅草には、無論大震災で崩れた12階はなかったが、瓢箪池は健在で、その周りでがまの油とかバナナの叩き売りとかの大道芸が見られていた。

 浅草には新宿や池袋などの盛り場にもない、下町の暖かい雰囲気があった。6区にはカジノ・フォーリー、オペラ館、笑いの王国やいくつもの映画館が軒を並べていた。

 川端康成の「浅草紅団」、「虹」、「花のワルツ」、「浅草の九官鳥」、「浅草の姉妹」、「淺草日記」などの浅草の風俗と人情を描いた、いわゆる浅草ものに魅せられた、彼の高校の後輩

である私達は連れ立って浅草を歩いていた。高見順も彼の後輩で「如何なる星の下に」でお好み焼き屋に繰り広げられる物語で名を知られるようになった。

 踊り子たちと親しくなる機会がないかな、と小屋の出口でハネるのを待っていて下足番の爺さんに咎められたこともあった。

 川端は昭和4年上野桜木町に移り住んでからは、地の利をえて浅草に通い、カジノ・フォーリーの文芸部員や踊り子たちと知り合い、その素材を生かして不朽の浅草風物語を描いたのである。

 浅草といえば、11月のお鳥さま。役所にいた頃部下の数名と行って、熊手を求め、部屋に飾っていたこともあった。一緒にいた福島補佐は衆議院議員を何期も務めた上、熊本県知事となったが、もう亡くなってしまった。

 樋口一葉の竹くらべの舞台も遠くはない。松葉屋で久保田万太郎さんと竹くらべや歌行燈の中の名文句を披露しながら楽しい一夕を過したことも忘れられない。