昭和12年の7月の末であったか。私は、細見、鈴木という一高の同期生と東大正門前の萬定という喫茶店でコーヒーを飲んでいた。丁度、学期末で明日から休みに入る時であった。鈴木は東京、私は横浜、細見は京都が家であった。そのまま別れるのが何となく惜しく、話している中に山中湖へ行こうということになった。そのまま中央線に乗って行き、その湖畔の一高の寮に着いた。

 山中湖のヨットは楽しく、旭ヶ丘でビールを飲んだり、気ままな3、4日を過ごしたが、今度は西伊豆の戸田に行こうということになった。東大の寮があった。

 そこは深い入江があって、泳いだり、伝馬船で対岸の飲み屋に通ったりの4、5日を過ごしたが、そろそろお金がなくなって来た。

 帰ろうと思ったが、沼津に通う船が転覆して便がないという。

 その日は朝から小雨であったが、達磨山の峠を越えて修善寺に行こうと言い出したのは私で、渋る二人を促して歩き始めたはいいが、達磨山の峠に近づくにつれて風雨は激しさを増し、峠の小屋で休んだ時はさらに猛烈な風と雨。後日聞いたら、その日は小型の台風が伊豆を襲ったということであった。

 傘も持たない3人はずぶ濡れで、身体は冷え切っている。「こんなところで死にたくない」など細見が言うので、行こう行こうと言った責任のある私は、身の縮む思いであった。

 といって、いつまでも小屋に籠るわけにはいかない。少し、雨音が落ちたところで、思い切って雨の中を峠を下り始めた。

 朝の10時にスタートしたが、やっと修善寺についたのは夕方の6時。さて、宿はどこということになったが、私が胃を病った夏目漱石が泊っていたという菊屋に行こうと私が言って、ところを聞き聞き着いた3人を迎えた宿の玄関番はずぶ濡れのわれわれを真直ぐ風呂場に案内した。びしょ濡れの服を脱いで温かい温泉の湯につかった時は本当に生き返る思いであった。

 浴衣で先ずはビールと生還を祝して乾杯をしたが、一息ついてテーブルの上の宿の案内書きをみると、1泊2食で5円50銭となっていた。われわれの泊る宿屋は1泊2食で2円50銭ぐらいが相場であって、流石菊屋と思ったが、3人の懐の金を合わせても、5円ぐらいしかない。

 困ったな、ということで対策を話し合ったが、1番遠い細見を残して、2人が翌日出かけ、私が電報為替で郵便局留にして金を送ることで一決した。

 横浜の家に戻った私は、10日間も何の連絡もなしに家を開けていたことに叱言を言う母から取り敢えず15円を借りて、細見に送ってやった。

 後から聞くと、まだか、まだかと細見は郵便局を3往復したという。鈴木は戦後早く、細見も昨年亡くなった。若さ故の行動であったが、今となってはただただ懐かしい思い出である。