あれは、昭和19年7月の初めであった。北支方面軍司令部経理部員の私は、支那派遣総軍司令部に出向、さらに武漢防衛軍司令部に出向を命じられた。南京から漢口へ、中華航空のたしか三菱の30人乗り位の旅客機で飛んだのが、初フライトであった。空冷式の機体で1時間ちょっとかかった。着陸した漢口の飛行場は燃えるような暑さであった。

 次に乗ったのは、翌年1月、漢口の第34軍司令部から北京に出張を命じられた帰途、同じく南京から漢口までであった。前の晩に米軍の戦闘機の銃撃を食って修理したという陸軍の双発の高等練習機であった。コーレンと呼ばれた7、8人乗りのポロ飛行機であった。パイロットが機関士と話し合っている姿がまる見え。声も聞こえる。米軍の戦闘機が漢口上空を飛んでいるという情報だが、このまま行くか、引き返すかと相談している。漢口に着く頃には、いなくなっているでしょ、と機関士が言う。まァ、このまま行ってみるかとパイロット。

 とんでもない飛行機に乗ったと思ってはみたものの、何することもできない。窓の外、翼の先に敵機が現れぬかと、ただ緊張して見ていた。

 漢口空港に無事着陸した時は、本当にやれやれ助かったと思った。

 軍司令部に入り、出張から帰った報告をしようと思ったら、先輩、同僚の将校から「貴様足があるのか」と訊問される。わけを聞くと、私が2、3日前、南京から船で帰ると連絡しておいたその船が揚子江を遡上中、九江で米軍の爆撃を喰らって、私と同行予定の下士官、多額の紙幣もろとも沈んだと言う。

 戦争中に飛行機に乗ったのは、その2回だけ。それから、3回目に乗ったのは、戦後になる。いずれにしても、私が乗った飛行機はその後、撃墜されたが、敗戦後押収されたかの運命を辿った筈である。