もうじき夏至になるので、この頃は早く朝が来て、夕方はかなり明るさが続く。庭の木々は今や緑の真盛りで、蜜を求めて蜂が飛ぶし、小鳥も絶えずさえずっている。町中の事務所から帰宅すると本当にリフレッシュされる思いである。

 戦後、3年間抑留されていたタタアル自治共和国のエラブガは北緯55度、ボルガ河の支流カマ河畔の小都市であった。あの辺は四季といっても春は5月過ぎ、カマ河の厚い氷を四発の重爆撃機が爆弾投下で割って始まり、冬は早ければ9月の終わりに雪とともにやって来る。

 春と秋は二週間ぐらいな感じ、その代り、春ともなるとあらゆる花が一斉に咲き、木の葉は一日何センチか伸びるようにみるみるうちに繁ってくる。昔、トルストイの復活を読んで、春のくる喜びを克明に描写した一節が記憶に残っていたが、あっこれだなと納得するところがあった。

 何か面倒なことがあっても「ニチェヴォー」(何でもない)とあっさり片付ける反面、あの息の長い文章を書ける忍耐強さを持つロシア人の性格はやはりあの気候と深いつながりがあるのかな、という思いがする。

 宗教は阿片であるといってキリスト教の壮大な教会を破壊をして、そして何十年か後にそっくりそのまま復元するという不思議さ、あれ程迄に街を占領していたスターリンの画像や銅像を一挙に片付けてしまう思い切りのよさ(?)はまねしてできるものではない。1年が冬と夏しかなくて、四季それぞれの変化に恵まれない北国の人々はデジタルのようにプラスとマイナスの間を行き来するのであろうか。

 劇団「四季」とは良く名づけた思う。異国の丘を上演した時浅利慶太さんから招待を受けたが、見終わって出口で待ちうけていた浅利さんの顔を見た時、ふっと涙がこみ上げて来て、ただ一言「良かったです、有難う」というのが精一杯であった。

 戦争中、世界三大不健康地の1つと言われる漢口に1年有余軍司令部々員として勤務していた。マラリア蚊に悩まされながら、夏となれば、汗が指先からしたたり落ちる街を歩いていた。真夏には晝寝の時間があった。窓を閉め、ブラインドをおろして電気を消し、天井から扇風機を回しただけでは足らず、卓上扇風機で横から風を送り、裸一丁で脚は氷の入った桶につけ、頭の上に氷を包んだ手拭を載せてじっとしていると、いくらか涼しいという経験もした。瓦の屋根が焼けているので、卵焼きが出来るか、どうか、というバカな賭けをしてたこともある。これはダメで黄身は瓦を滑って流れた。

 気候は人間の生活にやはり大きな影響を与えるものだ、ということを今更ながら思う。


                                   22・6・13