今年は久しぶりに六大学野球は早慶戦の勝者が優勝チームとなることになり、慶応が2勝1敗で11季ぶり32度目の優勝を決めることになった。

 そのシーズンの成績に拘らず、早慶戦が六大学野球の最終の試合となったのはいつ頃からだったか思い出せないが、戦前プロ野球の発足していない頃は六大学野球は花形で、小学生だった私もシーズンともなればラジオにスコアブック片手にしがみついていたものであった。当時、私は慶応のファンであって、選手の名前を今でも思い出す。

 ところで、終戦後ソ連に抑留された私は、タタアル自治共和国のエラブガという片田舎の町の将校ラーゲルにいた。

 食糧不足で全員が平均10キロ以上痩せるという時期を過ぎて、2度目の冬を越し、短い春も過ぎた頃、六大学野球のリーグ戦をやってはどうかという声が起って来た。

 このエラブガには将校約9千人がAB両ラーゲルに分れていたが、私はAラーゲルの日本側本部の給与主任をしていた。私が六大学野球連盟の理事長となり、リーグ戦を組織することになった。Aラーゲル5千人の将校の大部分は幹部候補生出身であったから、六大学のメンバーは数だけは十分集まった。ただ、当時ロシアでは野球は全然馴染みがなく、困ったのは先ず用具である。グローブやバットは何とか縫製工場で縫ったし、バットは木工工場で白樺の木から削り出した。ボールが一番難しかった。これも縫製工場でそれらしく作ったが、球の重さ、大きさなど揃えるのに苦心した。が、ようやく一通りの道具を整え、天気良い日曜日、ラーゲルのいささか狭いが中庭を球場とし、演芸中隊のブラスバンドで六チームが行進し入場式を開いた時は本当に嬉しく、病人を除いて多勢観に来てくれた。

 その最初の試合が、本物では最后になる早慶戦であった。慶応は成田、坂井という神宮のバッテリーが揃っていたし、殆んどの選手は神宮か甲子園(良く出ていた慶応商工)のメンバーであり、早稲田も同じく神宮と甲子園(良く出ていた早稲田実業)のメンバーが大部分であった。

 試合の結果はどちらが勝ったか、どうも慶応であったかと思うが、手造りのバット2本を理事長賞として私から渡したと思う。観客も思いがけない野球試合を目にして、いささか満足であったのではないか、と思うし、まるで初めて観るゲームで、ルールも何もわからないながら、マンドリン(自動小銃のあだ名)を抱えたロシアの衛兵も面白そうに眺めていた。

 リーグ戦はその後いくつか試合を行ったが、そのうち発疹チフスの発生で隔離中隊が出始め、遂には半分以上隔離中隊となり、逆に非汚染の健全中隊を隔離するようになって自然中止となってしまった。

 このラーゲルの早慶戦については、かなり後に慶応の某教授が早慶戦の歴史(手元に持っていないので、申訳ないが、正式の名称も不明)を作った際、どこで耳にされたか私の所へ聞きにこられたので、話をしたのが載せられている。

 冬には零下20度を連日越えるような北緯55度のエラブガの地でのラーゲル生活は確かに厳しいもので、それだけにソ連を怨むに充分なものであったが、その中にあってこの六大学野球は演芸中隊の上演した婦系図の芝居などとともにほんの僅かではあるが心の晴れる慰みであったと言えよう。



                                   22・6・1