八月十五日。もう六十四年も昔のこととなったが、当日ソウル郊外竜山高等女学校の校庭のラジオで多勢の女学生たちと一緒に終戦の詔勅を聞いた時のことをハッキリと思い出す。ああ、この戦いは何だったのか。多勢の戦友たちの死は何だったのか。流れる涙の間から見上げた抜けるような青空に米国のP38戦闘機が二機白い二条の飛行機雲を引きづって音もなく飛んでいた。

 この年の七月、中支の漢口から北鮮の咸鏡南道に咸興に移駐して来た第三十四軍司令部経理部の主計将校であって、露営養用の天幕・ストーブ・毛布などを関東軍貨物廠から受けとるために奉天に出張を命じられた途次であった。

 朝鮮軍司令部は混乱の極みであった。私は、ああこれで生命が助かったという思いであったものの、何をも考える力もなく夢遊病者のようにソウルの街を歩き、本店で小説本を二、三冊買った。ああ、これを読めるようになった、と思うと、一挙にあらゆるものから解放されたように思った。が、それは間違いであって、その晩、三十六度線を跨いで咸興の軍司令部に戻った私を待ち受けたものは、やがてソ連軍の侵入であり、酷寒の冬を三度も過すソ連抑留であった。

 抑留された関東軍、樺太軍、千島軍の将兵六十万人の一割は故郷へ帰る夢を見ながら異国の丘で亡くなった。その人達の名簿の提出、墓地の維持管理などソ連邦(今はロシア共和国他)との協定に基づく約束の履行を求めて、毎年ソ連抑留者団体・全抑協の会長として、今年も九月モスクワの諸官庁を訪ね、交渉をすることにしている。平成四年ゴルバチョフ大統領訪日の際に締結されたソ連抑留者に関する協定が必ずしも誠実に履行されていないのは、甚だ残念であって、毎年日ロシンポジウムへの出席と合わせてロシア政府との交渉のためにモスクワに行っている。

 昨年われわれが七0万人分の日本人抑留者のカードが中央軍事文書間にあることを確認し、厚労省に親告したが同省が現在コピーの作製について先方と具体的な協議に入っている。

 いずれにしても、終戦の日は遠くなっても、全てのことが片づいてるわけではない。