私は、以前から日本もデノミを実施すべしと唱えていた。大蔵省の理財局長の時、水田大蔵大臣、鳩山事務次官と相談して昭和四十七年にデノミを実施できないか、具体的準備に着手した。百円を一円とする案であった。

 経済成長、物価、為替、その上政情が安定していることがデノミ実施の前提条件であると言われ、当時、正にその時期ではないか、と思われていた。

 デノミを実施する場合の手順その他問題点を逐一検討して、いつ実施してもよいよう体制を作っておいた。

 この時は、昭和四十六年十二月のニクソン・ショックもあって実現を見なかった。

 私は、昭和四十九年に大蔵事務次官で退官し、昭和五十一年十二月に衆議院議員となったが、何としてもデミノを実施したく、昭和五十二年デノミ推進議員連盟を作り、その会長となった。自民党の金融問題調査会の中にデノミ小委員会を設置して党の正式機関でも準備を進めることとした。

 いろいろの経緯は省略しておくが、平成四年ヨーロッパにユーロが誕生した時、もしデノミを実施したら、丁度一ドルに、一ユーロ、一円という大変にわかり易い、覚え易い交換比率に近いものとなる、ということでデノミ議連も張り切ってPRも進めたのであるが、実現を見なかった。

 デノミの功罪は数え上げればいろいろある。今のままで、どこが不自由なのか、という議論も根強くある。デノミをすれば貨幣、紙幣の印刷、帳簿、コンピューターの改訂など、金融機関を始め、企業の負担も巨額なものとなる。その通りであるが、ひっくり返してみれば、それが需要の喚起と繋がり、デフレ経済にプラスの刺激となる。計算の仕様にもよるが、まぁGDPについて0・五%のプラスにはなるという試算もできた。

 私は、例えば、宮沢首相に三度もデノミ実施を薦めたが、三度目には、「君は又デノミか」と言われて、何だか嫌な気さえした。

 主要国のなかで、対米ドル三桁の交換比率となっているのは、日本の円だけである。戦前は、明治の初め一ドル一円、途中から一ドル二円となっていた。

 それがデノミをすれば、一円は一ドル、一ユーロに近くなる。計算の手間は大して変らないにしても、何よりも、円の威信回復になるではないか。

 ドル、ユーロに対して第三局とのアジアの基軸通貨になったらいいなと、いうのが私の願いである。

 解散・総選挙のドサクサにこういう結末にわたり大きな問題となるものにあわてて結論を出すようなことを求めているわけではないが、二年ぐら先に実施時期を置いて、デノミ実施の問題を総選挙の大きな争点にはならないか、してもいいではないか、という意見である。(21・7・27)