横浜は二〇〇九年に開港一五〇年を迎え、さまざまな記念行事が予定されている。

 鎌倉時代から横浜に住みついている家系のものとして、小中学校も横浜で通った私は、とくにその行事には関心を持っている。

 幕末全くの寒漁村に過ぎなかった横浜は開港を機として飛躍的な発展を遂げてきた。

 横浜旧市街の中心部は埋立地である。それもあって町名も長者町、黄金町、曙町、日出町、睦橋、千歳町など好字を選んでいる。

 この埋立てが難航を極め、ついにお三という女性を人柱にたて、ようやく関が築かれて埋立てが完成したという。お三の宮は彼女を祭ったもので、いわば横浜の守護神であると、子どもの頃聞かされた。

 横浜はとくに対米貿易の窓口となり、輸出入の貿易額では日本一であり、当時日本からの輸出額で首位を占めていた生糸、絹織物は横浜の港から米国などへ送られていた。

 戦争で壊滅的な打撃を受け、又、戦後長く市街の主要部分を米軍の駐留に委せられていた横浜は、国際的な取引で鳴らした横浜正金銀行が戦後東京銀行と名称を変更した一事でも示されるように、凋落の途を辿らざるをえなかったが、米軍駐留地も解放され、再び繁栄への途を歩もうとしている。

 開港一五〇年は日米修交一五〇年でもある。これを機としてミナト・ヨコハマがさらなる発展を遂げんことを希求して止まない。

 ちなみに日米交流一五〇年委員会の会長の大河原良雄君は私の一高時代からの同級生であり、その横浜の会長西田義博は私の義弟である。これもご縁か。


(2009.5.31)