あれは、武昌からさらに奥漢線で南、咸興の歩兵第十二旅団司令部の経理勤務班長として物資収買業務を担当している時であった。八月の中頃、漢口を爆撃した米空軍B25十五機が城内を爆撃した際のことであった。

 主計伍長一名を連れていた私は、キラキラ光る米軍機を見て咄嗟に目に入ったタコ壺に飛び込もうとしたが、そこにはもう兵隊が一人鉄帽をかかえてうずくまっていた。仕方がないので、他のタコ壺を探そうとしたら、もう爆弾の雨。道路にうつ伏せになって通りすぎるのを待つしかなかった。爆弾の炸裂する轟音とともに猛烈な突風で一尺近くも身体を持ち上げられ、痛いと思ったら爆弾の破片で右肩をかすられていた。猛然とした砂煙りがおさまって、タコ壺を覗いたら何と直撃弾で兵隊は死んでいた。もし彼が入っていなかったらと思うと総毛だった。私が連れていた伍長は、私が止めたにかかわらず直ぐ近くの貨物倉庫に転がり込んだ。爆撃の時は、建物の中ほど危ないと注意していたのに、探しに行ったら、顔半分を血だらけにして死んだようになっていた。リアカーを探して、直ぐ野戦病院に運んで行った。一目見た軍医は言う、もうダメだ。こうなると助かりそうなのから処置をする。頭と腹はダメだと言う。そこで何とか、とムリを言って、先に手術して貰ったが、幸い一週間後には、何とか生命をとりとめた。それでも、空襲警報の鳴る度に、意識のない彼が這って防空壕に潜り、入口でパッタリ意識を喪うという話を聞いて、生きようとする執念の強さを思わないではいられなかった。これも一つの運であった。