人口百万人を擁し、当時世界一の大都市と見られていた江戸は武士が半数を占める、従って男の数が人口の半分以上を占めていたと言われる。政治の中心の徳川幕府三百年の体制が、世界でも稀な鎖国状態のまま続いたことは特筆すべきものであった。平和が長く続いただけに文化・芸術の面での発展も目覚しかった。

 士農工商の身分は守られているものの、最下位に置かれた商人が非常に力をつけ、大名貸しと呼ばれた大商人も誕生し、実質的な威勢も強く、江戸の町も大消費都市としての進展は著しかった。

 この頃の江戸の町人は結構豊かとも思える生活をしているものも多く、蔵前の札差しなどは大きな経済力を保持し、度々の徳政令(借金棒引き)の暴挙にも耐えて力を蓄え、文化の爛熟期も招来する源となった。

 江戸幕府三百年の間、僅かに長崎の出島において中国、オランダとの通商は許されていたが、諸外国との自由な貿易は禁止され、経済力は伸長して来たというものの、子供の出生率は低く、人口もこの間殆ど大きく増えていないという状態で、妊娠中絶も多く「中条へ 五月おいて 同じ顔」のような川柳も生れている。

 今、手元にある『続江戸町人の生活』(今戸栄一編、日本放送出版協会)を参考にとくに気づいた江戸町人の生活の一端について、いくつか例を挙げてみる。