その後、私は、大学を卒業し、学徒動員で陸軍に入営、主計将校として北、中支を転戦、最後に所属した軍司令部が北朝鮮に移駐した直後終戦、そのため戦後、ソ連に三年間抑留されることになった。
ウラルを越えて、ボルガ河の支流カマ河の河畔の町エラブガであった。
かつては立派な教会堂を持つ修道院跡の収容所の生活は冬は零下二十度以下になるという酷寒の下、乏しい食糧事情での強制労働は若い身にも耐えたが、五千人の将校収容所であったし、殆どが学徒出身であった。収容所も二年目の生活となり、食糧事情もやや良くなって来た頃、六大学野球をやろうじゃないか、という話がどこからともなく出て来た。