小沢一郎民主党代表が五月十一日代表を辞めることを発表した。秘書の西松献金問題の責任をとる意味ではないことも付言している。

 小沢一郎氏の父上佐重喜氏も亦いわば一言居士であった。今でもよく思い出すが、昭和三十八年度の予算編成の際、事務当局間では金山ダムの着工は見送ることで話し合いがついていたに拘わらず、何が何でも予算を計上せよと水田大蔵大臣との間の大臣折衝でねばること三時間、ついに水没農家の買取資金要求十億円の十分の一、一億円を計上することで妥結せざるをえなかった。

 金山ダムは治水、農業用水等の利水のための多目的ダムであって、もはや米が余り気味であった当時の状勢のもとでは、認め難いものであった。どうしてもと頑張られると、予算折衝で何人も詰めかけて待っている他の大臣諸公にも悪いので、譲らざるをえなかったのである。

 一億円の先も毎年一億円ずつを計上する、つまり十年かかって十億円を計上するという、いわば着工を認めないに近い條件であったが、小沢大臣は「有難う」と言ってサッサと退場して了った。その翌年は九億円が計上された。大蔵省の完敗であった。


(2009.5.12)