岐阜県恵那市明智町に置かれた財団法人日本大正村の村長は初代高峰三枝子さんが亡くなった後を私の家内司葉子が継いでいる。五月三日から五日は「おんさい祭」といって明智光秀生れ故郷明智町のお祭りである。

 明智光秀は主人織田信長を本能寺に攻め殺した逆徒として、一般にいい印象を持たれてはいない。

 しかし、何故光秀が叛逆を企てたかは今一つよくわからないが、一般には主人信長が光秀を重用しつつも、家康接待の時魚が腐っていたとか言って足蹴にしたり、しばしば与えた屈辱に耐えかねての怒りの爆発と言われているが、果してそうか。

 自分よりも下と思っていた中国攻めに出向いていた秀吉の援軍を命じられたことで怒りが堰を切ったとも見られているが、いずれにして老坂を越える時に道を京へとる決心をしたのである。

 光秀に信長に代って天下をとる勝算があったのか、単に衝動的な決心であったのかはわからないが、信長は光秀の才を認めつつも本心は信長を馬鹿にしていた光秀の利口さが気に入らなかったのかもしれない、つまり秀吉のように可愛げがなかったのに違いなかったのではないか。

 いずれにしても明智町では光秀の悪口は聞かれない。愛知県吉良町における吉良上野介のごときであろう。そこでは、上野介は土地改良や製塩に力を入れていた名君であると言われていた。本当かどうか知らないが、上野介が赤穂の良質の製塩法の教示を乞うて断られたのも浅野を憎んだ原因であるとも聞いているが、真相の程は定かではない。赤穂には今も立派な製塩工場がある。





(2009.5.5)