ヨガのすすめ37 | 法友(とも)へ

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愛の実践がとてつもなく難しいという事を理解すると共に、愛とは何かという事も理解出来たのではないだろうか。

 

日本人は西洋人に比べて比較的、愛という言葉に崇高な意味合いを持たせている。

 

しかし、西洋人のラブという言葉は酷いもので、アイ ラブ ユーとは「お前は特別扱いだ。」とか「私は敵と味方を区別し、味方とだけ仲良くし敵を攻撃する。」といった意味である。

 

愛しているから特別扱いするとか、ファミリーは特別だとか、年がら年中そんな事ばかり言っている。

 

 

愛とは、自と他の区别のない、自分を含めて全宇宙にまで平等に及ぶ心の働きの事である。

 

自分を含めて誰も特別ではない、その実践は愛は特別だと思っている人達から見れば、冷たいようにすら見えるだろう。

 

真実の愛は、人間の理解の範疇を超えているのだから、まあ、仕方のない事ではある。

 

ただ、修行者のみがそれを知っている。

 

 

では、なぜ、愛の実践なのだろうか?

 

その答えは簡単だ。

 

真我とは愛そのものだからだ。

 

ただ、実際には逆で、真我の特性を愛と呼んでいるに過ぎない。

 

まさしく、「愛そのものである。」という表現がピッタリであり、自分も無ければ宇宙もない、ただ愛だけがある。

 

これが真我である。

 

愛そのものになるのではない。

 

そのものになるというのは、それ以前にそのものでなかった事を意味する。

 

愛は永遠不滅、常に愛であり変化する事はない。

 

これが絶対である。