愛の実践がとてつもなく難しいという事を理解すると共に、愛とは何かという事も理解出来たのではないだろうか。
日本人は西洋人に比べて比較的、愛という言葉に崇高な意味合いを持たせている。
しかし、西洋人のラブという言葉は酷いもので、アイ ラブ ユーとは「お前は特別扱いだ。」とか「私は敵と味方を区別し、味方とだけ仲良くし敵を攻撃する。」といった意味である。
愛しているから特別扱いするとか、ファミリーは特別だとか、年がら年中そんな事ばかり言っている。
愛とは、自と他の区别のない、自分を含めて全宇宙にまで平等に及ぶ心の働きの事である。
自分を含めて誰も特別ではない、その実践は愛は特別だと思っている人達から見れば、冷たいようにすら見えるだろう。
真実の愛は、人間の理解の範疇を超えているのだから、まあ、仕方のない事ではある。
ただ、修行者のみがそれを知っている。
では、なぜ、愛の実践なのだろうか?
その答えは簡単だ。
真我とは愛そのものだからだ。
ただ、実際には逆で、真我の特性を愛と呼んでいるに過ぎない。
まさしく、「愛そのものである。」という表現がピッタリであり、自分も無ければ宇宙もない、ただ愛だけがある。
これが真我である。
愛そのものになるのではない。
そのものになるというのは、それ以前にそのものでなかった事を意味する。
愛は永遠不滅、常に愛であり変化する事はない。
これが絶対である。