智慧 | 法友(とも)へ

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ついでに書いておこう。

 

何のついでなんだ?

 

っていう話ではあるが。(笑)

 

 

智慧は知恵とは違う。

 

同じなのは音だけである。

 

智慧は仏教の専門用語であり、日常会話で使われる言葉ではない。

 

 

まあ、これは他の言葉で考えてみればすぐに分かる事だろうとは思う。

 

例えば、量子力学という言葉の意味を知りたいと思ったら、それはやはり物理学者に聞くべきだろうと思う。

 

たとえそうでなくても、少なくとも科学者、または多少なりとも科学を知っている者に聞くべきである。

 

 

その量子力学の意味を、文学者に聞いたところで所詮は素人、まともな答えは期待出来ないということは理解出来ると思う。

 

ところが、これが智慧になると、とたんに素人の文学者に聞いて、それで満足してしまうのは、何とも不思議である。

 

まあ、オウムの教義に関しては、これよりもっとひどい事になっているのではあるが。(笑)

 

 

オウム真理教の教義においては、知性を3つに分類している。

 

これは3つの段階と言い代えることも出来る。

 

それは、知識、知能、智慧である。

 

 

知恵というのは、生活の知恵やお年寄りの知恵という言葉から分かるように、知識の事である。

 

そして、知能が思考、智慧が理解である。

 

量子力学という言葉で考えてみると、誰でも見たことはあると思うがそれが何なのかと思考することはない。

 

ましてや理解など、ほとんど不可能である。

 

 

もちろん人間界において最も大切なのは知識であり、受験にせよ資格試験にせよ、記憶で全てが決まると言っても過言ではない。

 

思考が必要になるのは、十分な記憶の後であり、理解が必要になることなどほとんど無い。

 

 

ところが、修行者においては、これが全く逆になってしまう。

 

最も大切なのが智慧であり、知識など修行には何の役にも立たないのだ。

 

まあ、智慧と知恵が全然違うものだという知識は、持っておいた方がいいかもしれないが。(笑)