エゴを滅する実践、すなわち我を滅する実践が修行である。
繰り返すが、無我は我、非我も我だが、真我は我ではない。
我が真我になるのではない。
我がなくなった後に残るのが真我である。
そして、我が消えてなくなるのを見ているのが、純粋観照者たるプルシャである。
が、しかし、プルシャは真我そのものではない。
で、ここまでの事を最初に理解してから、修行を始めるべきである。
当たり前の話だが、解脱とは何かを知らずして、修行とは何かを知らずして、いったい何をどうしようというのだろうか。
一般的な話として、目的を達成するために必要なのは、そのための正しい方法を知る事と、そのために必要十分な量の努力である。
しかしそれ以前に、自分の目的が何なのかを正しく理解しておく必要がある。
理解出来ずに修行を始めてしまうと大変な事になる。
なぜなら、修行が進めば進むほど、現世が崩壊しどんどん不幸になるからだ。(笑)
我、つまりエゴが喜ぶのが、現世が豊かになり貪りを増大させることである。
その真逆が修行者が進む道。
さあ、唱えるがいい。
「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする。」