光に没入した後、というか実際には光に没入する前からなのだが、究境の瞑想においては自分からは何もしない。
いわゆる無努力である。
ここでダキニを観想する、つまり努力をすると究境に失敗して元に戻ってしまう。
修行のプロセス、生起から究境への移行を理論的に理解しておく必要がある。
理解しておかないと、生起から抜け出すのがとても難しい。
エネルギーがさらに強まると、次の段階へと進む。
ビジョンが見えたり、変化身が抜け出したり、様々な体験をする。
ここでも体験にとらわれると、その先に進めなくなる。
体験は起こるに任せ、何もしない。
究境の瞑想は無努力である。
プルシャのごとく、ただ見るだけである。
そうしていると、無努力のままサマディに導かれる。
サマディは自力では達成が不可能なのだ。
なぜなら、自分が自分がというエゴの働きが、サマディに入ることを妨げるからである。
最後の段階のサマディについて、瞑想だと勘違いしている者もいるかもしれないが、サマディは瞑想ではない。
瞑想は努力、サマディは無努力。
生起は努力、究境は無努力。
無努力とは絶対他力、すなわち帰依の事であり、ヴァジラヤーナの本質である。