帰依⑬ | 法友(とも)へ

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光に没入した後、というか実際には光に没入する前からなのだが、究境の瞑想においては自分からは何もしない。


いわゆる無努力である。



ここでダキニを観想する、つまり努力をすると究境に失敗して元に戻ってしまう。


修行のプロセス、生起から究境への移行を理論的に理解しておく必要がある。


理解しておかないと、生起から抜け出すのがとても難しい。



エネルギーがさらに強まると、次の段階へと進む。


ビジョンが見えたり、変化身が抜け出したり、様々な体験をする。


ここでも体験にとらわれると、その先に進めなくなる。



体験は起こるに任せ、何もしない。


究境の瞑想は無努力である。


プルシャのごとく、ただ見るだけである。



そうしていると、無努力のままサマディに導かれる。


サマディは自力では達成が不可能なのだ。


なぜなら、自分が自分がというエゴの働きが、サマディに入ることを妨げるからである。



最後の段階のサマディについて、瞑想だと勘違いしている者もいるかもしれないが、サマディは瞑想ではない。


瞑想は努力、サマディは無努力。


生起は努力、究境は無努力。



無努力とは絶対他力、すなわち帰依の事であり、ヴァジラヤーナの本質である。