エネルギーを練り上げたら、ようやく究境の瞑想に入ることになる。
究境の瞑想とは何をするのかと言えば、一言で言ってしまうと何もしないのである。
サマディは導かれるもの。
努力によってどうにかなるものではない。
エネルギーを練り上げる段階で努力は終わりである。
サマディに導かれるカルマを持っているのなら導かれるだろうし、導かれるカルマを持っていないのなら導かれることはないだろう。
蓮華座を組んで座り、目を閉じる。
両腕は自然に足の上に置く。
眼前に白銀色の身体を持ったシヴァ大神を観想する。
シヴァ大神の身体から白銀色の光が放射されそのエネルギーに包まれる。
次に、自分の周り全方位に白銀色の身体を持った全ての真理勝者方を観想する。
全ての真理勝者方から白銀色の光が放射されそのエネルギーに包まれる。
続いて、自分の周りに全ての仏陀方、菩薩方を観想する。
全ての仏陀方、菩薩方から白銀色の光が放射されそのエネルギーに包まれる。
そのままエネルギーの放射を受け続け、強烈なエネルギーに包まれ、白銀色の光となり留まる。
ここでのポイントは留まるということである。
観想はしない。
ただ、光として留まる。
これが結構難しいのだが、オウムでは真我は純粋光の存在ということになっているので、こういう瞑想法になるのだろう。