主を呼び求める者すべて
まことをもって主を
呼び求める者すべてに
主は近くあられる
詩篇145:18
【怒らず愛す】
「怒っても罪を犯すな」とは
パウロが手紙に書いてますが、
怒ると損することばかりです。
怒りにより人は、自分を正当化し
立ち上がる力も湧いてくるけれど、
激怒すれば疲れも呼び寄せてしまい
不一致を与える諸刃の剣と化します。
しかも、もっと厄介なのは、人を
前後不覚なほど狂わせることです。
すぐに憤慨する人は、
自分が本当に守るべき
物事を見失ってしまい、
感情が制御不能になる。
怒りに身を任せた結果、
どうなってしまうのか?
人も自分も傷つけて、
神様を悲しませたりは
していないでしょうか。
その場しのぎで一時的に
圧迫感から解放されるが、
根本問題は解決しておらず
混沌や破滅に直面します。
怒りの矛先が自分で自分に
帰って来てしまう事もあり、
他人も我が身をも傷つける。
やがて悲観して自己否定と
批判とにさいなまれるが、
他人に対しても厳しくなり
やはりまた自他共に傷つく。
そんなんじゃ、社会に出ても
人間関係の構築なんか無理。
自分の怒りが通用しないのを
いつも他人のせいにしていて、
高みの見物でもするかのごとく
上から目線で相手を侮蔑する。
思いやりが無いとか、
優しいいたわりの心が
欠如しているとかよりも、
単に愛することを知らない。
悲観的に絶望する人。
それはもう、救いようも
サポートのしようもない。
自分は無価値でダメな
役立たずだと考えている。
怒りの感情を自分に向け、
周りに心を閉ざしたとしても
解決策につながる道はないから。
だって仕方ないよ、
自分が蒔いた種だから。
人を愛することを
知らないんだから。
自分を守るためとはいえ、
無条件に自己を憐れんだり
自分自身を愛することで、
甘やかされた環境に逃げて
現実の厳しさを忘れようと
必死に努力することもある。
アニメやゲームのキャラが
死ぬほど大切だとしても、
残念ながら現実ではない。
空想の物語に過ぎません。
サンタクロースのおじいさんは、
現実にこの世に存在しています。
人に愛と慈しみ、憐れむ心と
思いやりを与えてくれている、
熱く激しい優しさの存在だから。
でも、2次元オタク。
オメーらは、ダメだ。
喪女廃人たち。腐った垢で
リアルな感情を殺す者たち。
本当に、悲しみにくれなずむ
疲れて傷ついたアカウントは、
救いを求めて必死に堪えている。
希望を信じて努力していたら、
きっともっと良くなるだろうと
優しさで人にも愛をもたらす。
絶望の要塞基地に立て籠もり、
心をかたくなに締め閉ざす者は、
良い知らせの伝令も聴こえまてん。
招集ラッパが鳴り響いても、
聞こえなければ帰れまてん。
愛がなければ私は鳴るドラ、
響くシンバルと同じですがな。
苦しみが麻痺して消え去るまで
心を激しく燃え立たせなさい。
感動や感激を味わい尽くして
我を忘れるくらい愛しなさい。
すぐに現実から目をそらし
空想妄想幻想に逃げ込んで、
相手を侮蔑し批判してでも
自分を大事に守ろうとする。
勝手に思い込むのは自由だが、
それを他人に対して押し付けて
価値観を共有させようとはするな。
そこには思いやりも優しさも
理知の光も真実の知恵もなく、
単に愛という名の偽りの世界が
トグロを巻いてつけ狙っている。
悪の親玉は、神のことを思わずに
人のことを思わせるプロである。
怒りを捨て、憤りを鎮めなさい。
愛することをやめてはいけない。
敵があなたをあざわらう言葉に
耳をすませて聴いてご覧なさい。
「怒りで天に挑み地に堕ちたが、
深みにはまって住処を見つけた。
傲慢無礼で傲岸不遜な仲間だな?
俺と一緒に滅びてしまえばいい。
噛み付き食い付き当り散らし、
嘘と愚痴と戯れ言を吐きだし、
虚栄に身を委ねて亡者と化す。
次に餌食になるのは貴様か?」
喜劇や芸術鑑賞、美食や娯楽、
心ときめく観光旅行や恋物語、
運動競技や性的な快楽などで
世の多くの人は趣味を満喫し
苦しみ悲しみ怒りを和らげる。
「落ち込みすぎてウツになる
よりはまだマシだろう?」と、
まことしやかに語りかけてくる。
節度を持って取り扱わないと、
良薬も劇薬の猛毒になりうる。
「好きになりすぎた責任は
お前が選んだ道ではないか」
「結局、問題解決を先延ばし
にしているだけだとしても、
それでウサが晴れるのなら
安いものではないだろうか」
怒り自体は完全な悪ではなく、
怒って罪を犯すことが悪い事。
喜怒哀楽は自然な感情であり、
全てを超越する愛は完全な善。
いくら立派な指導者だろうと、
人に怒るばかりが能ではない。
十戒を授かり賜ったモーゼは、
偶像崇拝に走る民衆に怒り狂い
せっかくの石板を叩きつけて
全てをぶち壊してしまった。
その後なんやかんやあって、
約束の地に着くまで40年。
主の民はお互い、怒りよりも
人を愛で見ないといけまてん。
お互いが、相手の中に、
共に愛する主の民として
思いやり、いたわる心さえ
失わなければ良かったのにね。
真実の神をないがしろにして、
偶像崇拝というのは、すなわち、
自分の肉欲や虚栄心を満たして
幻想の世界に逃げ込むだけの話。
架空の神を創り上げるというのは、
物質的に像を刻んで拝むこととは、
真実を曲げて偽りの世界に逃げる
現実逃避な現代社会にも当てはまる。
愛することをやめて
憎しみに憎しみを重ね
怒りに翻弄された結果、
歴史はどう動いたのか?
戦争と混乱、殺戮、収奪、
蹂躙、陵辱、暴力と荒廃。
人間の尊厳も破壊されて
崩壊と滅亡を招いていく。
激しい怒りの感情を制御
出来なくなってしまった
結果として人は死に絶え、
新しく生まれる命も無い。
全ての呪縛から解放されて
本当に自由になりたくても、
重い責任を手放したくても、
現実は平和にはならない。
絶望を避けて笑いに逃げても、
一時的な安心感は与えられるが
厄介事から逃げ出しているだけ。
本気で問題に向き合っていない。
それなら、どうすれば良いか?
愛することをやめた人類は、
真実の愛そのものである神に、
イエスが今なお呼びかけている
無限に力強い神の愛に立ち返ろう!
【 激しい 優しさ 】
激しい怒りは人を滅ぼす。
激しい愛のみが人を救う。
救いは信じるだけで大丈夫、
行動しなくても良いからと
キリストの名を持つ宗教は
聖書の言葉で説明しようと
甘く優しく語りかけている。
イエスの愛は、激しい。
「わたしについて来たいと
思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、
わたしについて来なさい」
十字架とは、処刑される
人が釘付けにされるもの。
十字架を負うというのは、
自分自身に死ぬことです。
自我やプライドを捨て、
こだわりやしがらみから
自由になることが大切です。
夢や希望、理想や野心は、
自分が考える形ではなく、
神様の計画が成就すれば
全てが上手くいくのです。
心配する必要はありません。
じゃあ、実際に困った時には
いったいどうすれば良いの?
そこで、建設的な改善策が
どうしても必要になります。
怒り嘆き悲しみ苦しみ、
感情全開で必死に堪えて
あがきもがきのたうつけど、
生きる活路を見出すのは困難。
多くの人には天に実在する
神の王国が知覚出来ないし、
信仰や希望、愛を伝える人も
まだ全然育ってないからです。
たとえこうすれば良いよと
天の喜びと幸せを与えても
心底からの笑顔は続かない。
愛や理想の展望をもらえたら、
興奮してついていきますと誓う。
自らをだまし押し殺すだけで、
本心は恐れと不安と不満ばかり。
神に希望を置く者は
愛と光で自由になり
自在性の上智を得る
激しく怒り狂って、
感情抑制の出来ない
惨めな状態に陥る人。
そもそも、それは何故か?
傲慢とプライド!
希望を神に見出さないで
自分自身の肉欲に委ねて
無知無明に縛られている
エゴは人を思い上がらせ、
高飛車で無学不躾な自分を
見失わせてしまうから。
エゴとは自分という事。
プライドは、全ての物事を
崩壊させ駄目にしてしまう。
傲慢と無明の憤激は、
悪魔がもたらす悲劇。
神の愛が世を救うとすれば、
そこにあるのは苦しみ悲しみ
なんかではなく怒りでもない。
激しく燃え立つほどの
熱くて力強い優しさです。