【 慈しみ 深き 人 】


神様は常に、愛によって、
この世の人に本当の幸せを
与えようとされています。

慈しみの深い人と呼ばれる
イエス様が父と呼んでいる
神様は、慈しみと憐れみに
非常に富んでいる神様です。


人は、神様の望むままに
与えられた全てのものを、
慈しむことこそが大事です。

愚痴や不平不満を捨て去り、
信頼と安心で愛することです。


慈しみの心を持つこと。

思いやりの情けをかけ、
深くて広い心の愛を育て、
感謝して生きることにより
神に喜ばれる人になるのです。


そこには「愛しなさい」と
イエス様が教えられたていた
真の意味が含まれています。

そもそも「慈しむ」とは、
どのような事でしょうか。

偶像を礼拝したり、動物や
植物、その他の色々なものに
過度の愛情を注いだりして、

愛という名の執着を抱く事が
「慈しみ」なんかではない。

そうではなく、
人を、人として、
純粋な気持ちで
愛することです。

必要以上に愛情を持って
何かに入れ上げた所で、
神様の望む愛ではない。

そのような愛着やこだわりは、
真実の慈しみではありません。

好みのものに愛着することは、
慈しむことなんかではないし、
本物の愛情とは無関係です。

感情や感覚、つかの間の快楽、
一瞬だけの地位や名誉や栄光。

それらを愛したとしても
永遠に生きる事は叶わず、
朽ち果て滅び去るだけです。

人間に役立ってくれて、
それぞれ命を、すなわち
感覚と心を 持っている
小さなものに対して、

憐みと感謝の心を持つ
のが慈しみということ。

愛するということの
本当の意味なのです。

生き物を育てる際にも
慈しみの心を傾ければ、

それに応じた心をもって
愛と誠意が返ってきます。

人間なら、なおさらのこと。

慈しみを人に分け与えても
無駄な事にはなりません。

むしろ、情けをかけておけば、
やがていつかは巡り巡って来て
自分自身が情けをかけられます。

情けは 人のためならず。
回り回って返ってきます。

愛して、慈しみなさい。
あなたも 愛されますよ。

ただ、自分が良くしてほしいから
人に良くしてあげるのではなくて、
愛され救われたからこそ感謝して、
慈しみを施すことが 大切な事です。

イエス様が愛したのと同じ様に、
人々を愛することを望む人こそ
本物のキリストの弟子でしょう。

イエス様の活躍の後には、
真理と愛に仕える下僕達が
送られる事になっています。

この人達は、イエス様の
言葉を繰り返して語り、
世に広く福音を伝えます。

それは命を与える言葉です。

小羊達は、今も未来も、
イエス様の言葉を通して
愛と真実なる神の教えを
世の中に証して行きます。

愛することだけでなく、
愛され救われた教えを
人にも伝えて証します。

さまよっていた
可哀想な小羊も、

慈しみに導かれて
正しい道に入り、
永遠の命を得ます。

このような霊魂は
滅びることがない。

「誰も私の手から
彼らを奪い取ることは
できない」と主は言われる。


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ヨハネ福音書
10:27〜29

わたしの羊は
わたしの声に聞き従う。
わたしは彼らを知っており、
彼らはわたしについて来る。 

わたしは、彼らに
永遠の命を与える。
だから、彼らは
いつまでも滅びることがなく、
また、彼らをわたしの手から
奪い去る者はない。 

わたしの父が
わたしに下さったものは、
すべてにまさるものである。
そしてだれも父のみ手から、
それを奪い取ることはできない。 

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霊魂は、何よりも
自分達を命、真理、
そして、正しい道へと
導いてくれる人を必要とする。


神は、本当に
慈しみ深い方。

偽牧者による
怠慢のせいで

いくら探しても
神を見つけられない

可哀想な盲目の
霊魂に対して、
常に憐み深いお方。

神は、さまよっている
小羊のような霊魂たちに
あわれみをかけている。

イエス様は、その様な
私たちの救いのために、

十字架で苦しみ、死なれて、
復活してくれたのだから。

慈しみ深い方は、
単に愛に深いだけでなく
その愛を成就させるだけの
力強さをも持っています。

キリストの道を進むとは、
自分のこと以上に人を愛し、
慈しみの心を持つことです。

真の喜びと幸せを与え、
真の自由へと解放し、

憐れみと感謝の心が、
その愛によって人を
本当に救うのです。