【 敬天愛人は 救国の希望 】
飯山一郎先生追悼シリーズ最終回。
鹿児島といえば、大河ドラマでも
話題になっている西郷どんの故郷。
「自分を殺しても他者を助ける」
というのは、聖書を愛読していた
西郷どんの生き方でもあり、また、
政治的にもその立場になりました。
敬天、救国、愛民が
西郷隆盛の心情です。
西郷は聖人を志した人。
実際に聖書を愛読してます。
大久保利通は「経国 救民」で、
普通の人としての最高峰。
飯山一郎先生も、たしかに、
愛国と救民を実践していました。
西郷は「天使になった人」
などとも言われています。
「天国に入った人」かどうかが
本当は大切なことなんですね。
大久保利通と西郷隆盛、そして
坂本龍馬や勝海舟はどう違うか。
「天国に入れたかどうか」とは、
天の王国に相応しいかどうかです。
箴言14:12 ~13
人間の前途がまっすぐなようでも
果ては死への道となることがある。
笑っていても心の痛むことがあり
喜びが悲しみに終ることもある。
もろくはかなく移ろいやすいのが、
この世に生きる人生というものです。
しかしその中で変わらないもの、
どんなときにも絶対に変わらないもの。
それは、主の愛であり 天の王国です。
人はみな、この世の旅人であり、
修業中の身などとも言われます。
一番役に立つ修行というのは、
練習よりも本番を実践して戦うこと。
幸せな人生を共存共栄して
協調協力で乗り切るひとは、
天に宝を積むことになります。
「皆んなで一緒に幸せになって
楽しく喜んで暮らしましょう!」
理想であり希望であり目標です。
そういう思いと真逆な考え方は、
「弱肉強食の世界」に生きて
自分さえ良ければ他の人など
どうなっても構わないような、
下衆で外道で道を踏み誤った
恐怖、絶望、煩悩、迷妄の道。
それでは天の道は開拓されません。
狭い戸口の向こうにあるのが、
本当に素晴らしい至福の極み。
本当の天は、憎しみや争いは無縁。
子供のような純粋な心こそ、
天の国に相応しいとされます。
お互いに愛の心で一致すること、
タイミングよく相手の喜ぶニーズを
察して応えてあげられる気配り。
何の哲学も宗教も不必要です。
愛は、理屈ではなく実践です。
世の中が良くなることは、
多くの人が目指してきました。
すべての「位相」が一つになると、
それは「天国」であるとされます。
極めて日本人らしい発想ですね。
天国に「位相」を見る人は、
いまだ現生にいる地上の人。
法然聖人(ほうねんしょうにん)
という昔の御坊さんは言いました。
「山にて修行したきは山にて
町にて修行したければ町にて
いずれのところにおいても
念仏は相変わらず候」
他の色んな坊さんたちも、
常住坐臥みな全て修行だと
のたまっておられる模様。
パウロ
という人がいます。
聖なる人とも言われますが、
本人は常に戦う人でした。
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
コリント人への第一の手紙
9:19-23
非常に厳しい生き方に思えますが、
とても純粋な生き方に違いないです。
自分が迫害していたイエス・キリストの
弟子たちは、本当に神に愛されている
天の王国の住民であると気付いた時、
生き方が全く変わってしまいました。
天の神を信じるということは、
地に生きる全ての人を愛すること。
それが救国のために一番の道である。
古今東西の様々な聖なる人たちには
色々な弟子がいました。
クリスチャンと呼ばれる人たちは、
本来なら全てキリストの弟子です。
先生に負けないくらい偉大なことを
弟子たちもすることが出来るように
なるのです。
キリスト・イエスは死んで復活し、
天に昇り、聖霊をつかわしました。
イエスを信じ、主であると告白し、
神のキリストにならう
真のクリスチャンたちは、
イエスの名で命じることによって、
身体や心が癒され、
死んだ者も復活し、
悪霊が出て行き、
天候をも左右させ、
様々な奇跡を行います。
地上の人間として最高峰に登って
この世にどんな足跡を残しても、
天国に生きる住民登録をしている
真のクリスチャンにとっては、
敬天愛人による救国の希望こそが
本当の奇跡として 山をも動かす
強い信仰の発露となるでしょう。