‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭
‬ ‭4: 1〜8‬ ‭



主人たる者よ、僕を正しく
公平に扱いなさい。
あなたがたにも主が
天におられることが、
わかっているのだから。

目をさまして感謝のうちに祈り、
ひたすら祈り続けなさい。

同時に
わたしたちのためにも、
神が御言葉のために
門を開いて下さって、
わたしたちがキリストの奥義を
語れるように
(わたしは、実は、そのために
獄につながれているのであるが)

また、わたしが語るべきことを
はっきりと語れるように、
祈ってほしい。

 今の時を生かして用い、
外の人に対して賢く行動しなさい。

 いつも、塩で味つけられた
やさしい言葉を使いなさい。
そうすれば、ひとりびとりに対して
どう答えるべきか、わかるであろう。

 わたしの様子については、
主にあって共に僕であり、
また忠実に仕えている
愛する兄弟テキコが、
あなたがたに一切のことを
報告するであろう。

 わたしが彼をあなたがたのもとに
送るのは、わたしたちの様子を知り、
また彼によって心に励ましを
受けるためなのである。

‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭4:1-8‬ ‭


http://bible.com/1820/col.4.1-8.口語訳



人が口にする言葉というものは、
よく気を付けないといけません。

人間関係で成功を左右するのは
まずは自分の行動や態度ですが、
言葉も非常に重要になります。


聖書の中には、言葉に関する
教えがとても多く見られます。

箴言10:19
口数が多ければ
罪は避けえない。
唇を制すれば成功する。

箴言15:1
柔らかな答えは憤りを静め、
傷つける言葉は怒りをあおる

ヤコブ3:2

私たちは皆、度々過ちを犯すからです。
言葉で過ちを犯さないなら、
それは自分の全身を制御できる
完全な人です。


コロサイ4:6

いつも、塩で味付けられた
快い言葉で語りなさい。
そうすれば、一人一人に
どう答えるべきかが分るでしょう。



「塩で味つけられた」
とはどういう意味でしょう。

新約聖書の書かれた紀元1世紀、
この時代の一般社会では、塩は
「防腐剤」として用いられ、
「魅力的でウィットに富む」
という意味だとする説もあります。

しかし、イエスが弟子たちに語られた
御言葉を読むと「塩は意味深いもの」
でありとても大切なものと分かります。


マタイ5:13

あなたがたは、地の塩です。
もし塩が塩けをなくしたら、
何によって塩けをつけるのでしょう。
もう何の役にも立たず、外に捨てられて、
人々に踏みつけられるだけです。

Matthew 5:13

イエス様によれば、わたし達
クリスチャンという存在は、
地の塩だといわれています。

太古の昔から、塩というのは
防腐剤につかわれれいました。

この世は 悪魔の支配下にあり、
この世は 腐敗しているような
汚い状況が数多く見られます。

この世の腐敗を広げないように、
キリストに従い、見ならう人は、
喜び、 輝き、 生き様を通して
神の国が現実に存在することを
公けに宣言し、証する者です。

クリスチャンは福音伝道師、
evangelistエバンジェリスト
として特別な活動をしなくても、
自分の行動、態度、言葉によって
神の愛と真実の希望の道を、人に
伝えていく必要があります。

この世の防腐剤の役目である
私達の間には、 争いなんかが
あったら絶対にいけません。

不和不仲、不平不満、不安や怖れ、
暗い顔をしていたり、冷淡で
不親切、不寛容で強情頑固、
それらはみな、愛を知らない
可哀想な人と同じようなもの。

愛しあっていない、もしくは
肉体ではどんなに親しく仲良く
愛をシェアする相手がいても、

他人に愛を示すことをせずに
自分達の世界に閉じこもれば、
生温い情欲に溺れる様なもの。

快楽主義で神を排除する人と
あまり違いがなくなります。


いつもお互いにいがみ合ったり、
無視しあったり、蹴落としあって
反発しあったりしているのなら、
愛そのものが欠落しています。

いつも地位や名誉に気をとられ、
いつもお金や損得勘定にこだわり、
形式や世間体などにとらわれる人。

神様よりも違うものを一番にしている
偶像崇拝者とあまり変わりがないです。

家族 夫婦 親子関係もうまくいかず、
人付き合いがうまく出来ない。

それは、防腐剤である塩が、
私達の中から奪われていて
「自分の心が腐っている」
のではないでしょうか?

この世の防腐剤として、
影響力をもって世の中の
暗い顔している人々に
笑顔を与えていく。

自分からスマイルがなければ、
人をスマイルには出来ません。

腐っていく世の中の人に
塩味をきかせて腐敗から
助け、笑顔にさせられます。

自分で笑顔を忘れてたら、
世の中の人と一緒になって
腐っていくことにもなります。

聖書を学ぶということは、
単に知識を得るだけではなく、
神の言葉を授かった者として
実践していくことを意味します。

大切な宝物みたいに保管して、
積ん読(つんどく)してたら、
それは物置きの底で眠ってる
金庫の中の宝と変わりないです。

腐る人か、腐るものを助ける人か。

どちらの役割を選ぶのかは、
自分で実践するかしないか。