「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。
わたしは彼らを知っており、
彼らはわたしについて来る。

 わたしは、彼らに永遠の命を与える。
だから、彼らはいつまでも
滅びることがなく、また、
彼らをわたしの手から奪い去る者はない」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭10:27〜28‬ ‭


【   偏見捨てて 素直に見て!】


豊かな実りがある主の民として、
どのようにすれば本物か偽物か
見分けられるのでしょうか?

「主の牧場の群れ」は、
神の声を聞き分けますし、
主の命令に聞き従います。


「わたしの羊は
わたしの声を聞き分ける。
わたしは彼らを知っており、
彼らはわたしに聞き従う」

と言われているように、
本物の主の民は神を愛し
神を信じる人たちです。


羊の皮をかぶったオオカミは
しょせんは偽善者であって、
形や外面ばかりこだわっていて
内容や感情がこもってません。

見栄や欲望や名声にこだわれば
あっという間に真っ逆さまに
奈落の底へと沈み込むでしょう。

そして、最大級の危険として、
「偏見」
というものもあります。



自分を偽善者と認めない人は、

「私たちは全員似た者同士だ」

という考えを押し付けてきます。


人はそれぞれ事情や理由があり、

少しずつ違う所もあったりして

互いに異なる者としてこの世に

存在を許されているのです。


もちろん、だからと言って、

自分だけ都合の良いように

棚上げしたり言い訳をして

生ぬるく甘えてたらダメです。


「十字架を背負って主の道を行く」

ということは、キリストの生き様に

見習い、学んで、精神を受け継ぐこと。




そうかと言って、無理強いして

封建時代の如く人の心を蹂躙し、

恐れの奴隷として人を扱うのは

言語道断なもってのほかのこと。


人間は神の子どもとなるために

愛を与えられた貴重な存在です。

恐れの奴隷としたがるのは、

悪の親玉の常套手段でしょう。


その辺に よくよく注意しないと。




人は、色んな種類がある様に

神によって造られてはいても、

偽善者が、画一的に統一化して

一括管理体制を敷こうとします。


何故なら、分かりやすいから。




色々なことに気を使わなくても、

お前はこうだからと頭ごなしに

決めつけてかかることにより、

全てを平和に丸く治めたい。


だってその方が楽だから!




真の平和は、お互いに自分達の

違いを尊重し合う時にこそ、

初めて到来するものです。


自分がどういう者であるかを

本当に理解する人でなければ、

愛を他者へ分かち合えません。


自分自身を理解出来てない人が、

他人を思いやることは無理です。


説得力なくなっちゃいます!





形だけで奉仕したりしても、

それは魂の抜けた偶像みたいに

やがていつかは朽ち果てます。


取り返し つかなくなって

気付いても 後の祭りで

覆水盆に返らず です !



自分と違う人に対して

脅威を感じることなど、

神を信じる人にとって

あってはなりません。


心が解放されている人は、

自分たちとは違う人たちに

敬意を払うことができます。


いつもお互いに尊敬して、

学び合おうとするからです。


ちょうど、今、JESUS を

知ろうとして、こうして

ミニストリーを学ぼうと


素直な心で見ている

あなたのように。

(=´∀`)人(´∀`=)





そのときイエスは声をあげて言われた
「天地の主なる父よ。
あなたをほめたたえます。
これらの事を知恵のある者や
賢い者に隠して、
幼な子にあらわしてくださいました。

 父よ、これはまことにみこころに
かなった事でした。 すべての事は
父からわたしに任せられています。

そして、子を知る者は父のほかにはなく、
父を知る者は、子と、
父をあらわそうとして子が
選んだ者とのほかに、
だれもありません。 

すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。

 わたしは柔和で
心のへりくだった者であるから、
わたしのくびきを負うて、
わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に
休みが与えられるであろう。

 わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからである」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭11:25-30‬ ‭




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CHRIST NATION