人の弱みに付け込んで、
自分は高みで嘲る者には
なりたくないものですね。
同じ事を自分もされますよ。

手出しも出来ぬ可哀想な人は、
不憫な状況だろうと憐れんで
温かい目で見守るなりすれば、
少なくとも角は立たないのにね。

花嵐のように、せっかく咲いた美しい人の心の喜びを吹き散らす様な人は、心無い言葉を平気で言ってのけます。それは、本当に、言葉では表現出来ないほど可哀想なものです。


たとえそれが、自分にとって嫌な思いをさせる相手だろうと、表面的な触れ合いなどはしなくても良いですから、そこには限りない愛情をそそぐことは出来ないことはないです。


そしてそのような可哀想な人の心であっても、せめて大事にすることが出来る人であれば、必ずや自分自身だけは幸せな未来が現実になります。自分自身が幸せになることを通してなら、相手も気付かぬはずがないですからね。もし、それでもまだ、本当に悪い言葉を使うのをやめないなら、それはその人の人生の取り分として、幸せとは違う道を選ぶ人だっただけです。



人も道具も、動物や機械、自然環境や市場の動向でさえも、大事にすれば、その本人がそれらのものから大事にされるというものです。

ぞんざいにすれば、ぞんざいにされる。

感謝をすれば、感謝をされる。

つまり、人に喜ばれるような存在に、自分自身がなることこそが、幸せの秘訣です。

お金が喜ぶような使い方をする」と、

「お金が沢山やって来る」ものです。

「人が喜ぶような言葉を使う」と、

「人に喜ばれて人がやって来る」のです。

感謝の気持ちを持ちさえすれば、
人に喜ばれる生き方も出来るもの。

愚痴、陰口、嫉妬、卑怯は、

まず、「幸せとは違う道」を選ぶ人です。

関わりたいとは思わないです。
関わる必要はありませんが、
無頓着でもいられません。
本人は分かってないでしょう。

自分の自由意思で拒否してるなら、
幸せな現実はまだまだ遠い彼方です。

幸せになりたいと本気で思ってたら、
人には祝福の言葉をこそ与えましょう。

呪う者は呪われるというのは、
testamentの民からしてみたら、
何千年も前からの常識です。

Christianとかではなくても、
「呪うよりも祝福が大切」
なんてことの常識くらいは、
大人の社会人なら知ってます。


【愛とは異なる心の盲点】

伴侶との触れ合いや、親密な仲間、信頼出来る
友の存在、理解し合える人の絆は、心を癒すものではあります。しかしながらそれでもなお、自分たちだけの狭い世界に閉じこもることになってしまえば、排他独善に走ることにつながりかねないものでもあります。

自主独立をしているつもりであっても、それは別に、自主でも独立でもありません。自主性も独立の尊厳も無くしてしまっており、自分の利益と虚栄のためにのみ依存するのと同じこと。

肉体的快楽衝動に依存するなど、自分を甘やかしすぎるあまりに悲劇の主人公になろうとするのなら精神的切迫感は増加するばかりになり、

自分自身が作り上げた妄想の世界に影響されるなら、心の傷はもっと酷い状況になるでしょう。

善悪正邪を自分の主観的な判断で決めるのは、とてつもなく恐ろしいこと。

それを愛だなどと誤解してるなら、そこに何の解決があるでしょうか。

冷静に、客観的な事実確認ができないなら、どんな戦争や、災害などでも起こり得るもの。

過去の歴史は全てを物語っており、同じ悲劇を繰り返さないためにも人は学ぶことが必要です。