誰が発達障害か?
発達障害とは誰ですか?
何を基準にしてるのか?
「誰がコマドリころしたの?」


いまさらながらですが、
ここで言葉のロジックの
落し穴にはまってみます。
あえて、わざと、意図的に。


「発達障害」なる人の特徴が、
自分以外の他者に対しての、
「コミュニケーション不全状態」
にあるのだとするのならば、


そのような他者への配慮を欠く、
「コミュニケーション不全状態」
の子供達に対しては、そういう子への、
コミュニケーションは出来ているのか?


「コミュニケーション」自体が、
不全な状態であるということは、
子供でなく大人が原因ではないのか?
一体、誰を基軸にして考えているのか?

たとえそれが「全体性」なのだとしても、
発達途上にある「子供の心」の段階では、
地域社会やコミュニティーへの考えは、
「大人の価値基準」とは異なるものです。


だとすれば、コミュニケーションが
出来ていないのは子供の方ではなく、
発達障害だと決める大人の方である、
という論理も成り立つのではないか?


本当の発達障害とは、いかがなものか?
古来より、子供達の言葉遊びの中で、
「人をバカという奴がバカなんだ!」
という逆ギレのフレーズがあります。


オヤジギャグを言っている大人を、
「なんて恥知らずで格好悪いんだ!」
と思う年齢層の世代がいたとしても、
その心に恥知らずな格好悪さはないのか?


これらの意見は見方によって、
またはそれぞれ立場によって、
状況はすぐに変わるものです。
だからこそ言葉は難しいのです。


人のウワサや自分の思い込みなど、
人間の分際において他者を単純に
判断して断罪することをするなら、
いとも簡単に信頼を失うでしょう。

そういう身の程知らずな人は、
世の中にはよくいるものです。
そういう人ほど自分に向けて
実際に言われてもわからない。


言葉の論理性は奥深いもので、
作家の筒井康隆氏は作品の中で
「メタ言語とはメタメタな言語」
と定義付けされておられます。

議論のための議論だなんて、
虚しいことこの上なしですね。
ディベイトよりもディスカッション。
討論するなら話し合いしましょう。

曽野綾子さんの差別発言も、
「どんだけ音質育ちなんだよ~」
と文句を言わないことです。
可哀想なお年寄りなんです。

過激で辛らつな発言ばかりを
していたら、いつかそのうち
自分に全部返ってくるんだと、
反面教師にすれば良いだけ。


また、人工知能の分野が発達し、
あらゆるシステムが合理化しても、
まだまだ自然言語を自由に扱い、
通訳や翻訳には少し手間取ります。

もちろん、近い将来には、
言語という壮大すぎる領域も、
人工知能において凌駕される
時は来るかもしれませんが。


しかしながら、希望もある。
いつまでも変わらないものも、
世の中にはあるものです。
愛と、理解と、思いやり。


人はすぐに、自分の目で見て、
自分の頭で割り切れ、鼻の先で
嗅ぎ分けられ、味わい手に触れ
心に感じることに右往左往する。


愛の真実の姿は、無限にして
永遠であり、常に変わらない。
人から脅され、侮蔑ようとも、
愛と勇気は友だちですからね。

(=´∀`)人(´∀`=)    そうだ!恐れないで~


誰がコマドリころしたの?
私が鐘を鳴らしましょう。
可哀想なコマドリのため、
葬儀の鐘は鳴り響く。