友とのつながりは大切
友とは、だれですか?
どういう存在ですか?
有益な人脈だから、それが友か?
共に生きる存在でなければ、
それは、友などではなくて、
欲得づくのお付き合いです。
誰が、友を得るのでしょうか?
人を、大切に出来る人でしょう。
友とは、好きな人同士なのか?
なれ合い仲間が、真の友なのか?
なれ合い仲間は、有益な人脈とは、
そもそも全然異なる存在ですから。
友達は冷静に選ばないといけない。
同じ温度の涙を流しあえる仲間か、
単なる同じ釜の飯を食べる仲間か。
同調圧力で生き方を強制されるか、
相互扶助で悪習慣が改善されるか。
共依存で悪循環を脱出出来ないか、
独立自尊で困難打破を目指すのか。
異端視されることを恐れたりせず、
確信のある大きな目標を掲げれば、
信頼出来る仲間と巡り会えるもの。
「権力の犬」なら友は出来ない。
理解し合える仲間と共に働くのに、
こびへつらいやおべっか使いでは、
本当に大切な目的をも見失うもの。
自分をよく内省する人は友も多く、
環境変化に適応することも出来る。
友はなれ合いだけの仲間ではない。
友は、共に生きること。
それは、愛。
友とは、共感や信頼の情を抱き、
お互いを肯定し合う人間関係。
そういった感情を抱き合えずに、
友達同士の間に生まれる情愛を
知らないなら、友などありえぬ。
しかしながら、それらすべては、
本人の自由意思が生み出すもの。
人が友のために、
命を捧げるほどの
大きな愛はない。
真実の友情はなれ合いの
仲間にあるものではない。
相手をバカにしたり
からかって遊んだり
優越感に浸ってたり
憂さ晴らしをしたり、
損得勘定で動いたり
冷酷にさげすんだり
無慈悲に放置したり
放蕩快楽を欲したり、
悲劇のヒロインを演じたり
激昂して恨み言を呟いたり、
自己中心の判断で決めつけ、
相手の思いを見ず人を裁く。
それは、友などとは呼べない。
真の友など、出来はしないし、
幸せを願う心も、分からない。
感謝は自分から動くと気付く。
積極姿勢や肯定思考だけでない。
喜び楽しみ、友と助け合う中で、
許し合う心こそ平和を生み出す。
そこにこそ、信頼と感謝があり、
一致と調和が保たれるものだから。
それは、無限に広がる愛の息吹き。
永遠に、変わることなき不滅の愛。
友は、どこに、いるのだろう。
自分から友になることでしか、
友を呼んでも来てはもらえない。
友に叫んだり、問い詰めたりせず、
声を聴いてあげ、気付いてあげて、
心を本当に理解してあげること。
友は、何処に、いるのだろう。
友は、心の中で、出会えるのか。
探さなければ見つからないが、
自分自身を探すことが重要。
心を失う者は友をも失う。
真実の友を見つけるには、
愛の心がなくてはならぬ。
それは、どこに、あるのか?
「真実の友情を得るには、
自己犠牲ができるほどの、
友達関係の中に存在する」
一方的なやりとりでは、
友を見つけるには困難。
相互扶助とは安楽な環境で、
生温く関わり合うのではない。
困難苦境を打破して乗り越えるためには、
お互いが本当に大変な状況であろうとも、
愛と理解、感謝と信頼を深めてゆける。
逆風に向かい前進する時や
人生の岐路に立たされた時、
真の友の間に不平不満はない。
たとえ喧嘩があろうとも、
和解と許しがあるのだから。
友情の恩恵に預かるだけではなくて、
お互いが自分を相手に捧げ尽くす事。
新しい工夫と努力と情熱を傾け続け、
誠実に生きる道を選ぶことによって、
希望の実現という一大イベントをも
達成することがたやすく出来るもの。
いくら、勉強して学習して
試験にクリアして合格して
難関を突破して狭き門をくぐり、
主要な人材としてほめそやされ、
即戦力となるべく育成されようとも、
成功を確実に手にするのは、まだ先。
人には友がいなければ。
世のため人のためにと、
いくらモチベーションを
向上させようとしても、
心は本当に生きているのか?
心には、
人生の中で
ふれあった、
仲間の存在が
生きているもの。
馬車馬の
ように働き、
それが幸せでも、
友無くしては、
人は生きられぬ。
本当に
人間らしい
生き方とは、
愛に報いるため
我が身を惜しまぬこと。


