第4話  翼を広げて

きれいなお月さまを見ると、なんだか心が洗われる気持ちになる。
とてもきれいなんだけど、とても不思議。こちらからお月さまが見えてるってことは、お月さまからもこちらが見えてるってことよね。まあ、いいけど。わたしの心の中まで見えているとしても。

わたしが故郷を離れてから、ずいぶんと長い月日が経ったかしら。

風が強く吹きすさぶこの街には、地元で慣れ親しんでいた顔ぶれもないし、懐かしい香りのする好物の食べ物さえあまり見られない。

でも今日は、何十年かに一度の珍しい天体ショーが観察できるらしくて、ご近所の仲良しさんたちと一緒にお茶をしながら井戸端会議がてらきれいなお月さまを見ている。


「ねえソフィアちゃん、あなたいつまでここにいるの?」

「え?」

お隣りのサヨさんからの思いがけない言葉にとまどってしまう。

「えっじゃなくてさ。あたしたちにはそんなに気をつかわなくっていいのよ。あなたもそのうちここからいなくなるんでしょうから」

この世のものとは思えないほどに美しいお月さまは、なんだかいつもにもまして神秘的で不思議。

サヨさんが言っているここというのが、この世のどこのことか、一瞬とまどう。この5th AVE.のことだとは思うけど、いつまでわたしはここにいられるんだろうな。


「あ、いいところですよね、このフィフスアベニューて」

「んもうソフィアちゃんてば何をおバカなこと言ってんだか!!」

サヨさんと、ほかのみなさんは、わたしのことをとてもよくしてくれているけど、たしかにわたしはいつまでここにいられるのか。


「とくに何を偉そうに言うわけでもないんだけどさ、あなたにだけはなんだか、幸せになってほしいんだよねー」

「幸せ、ですか?」

いくらうわべでにこやかにしていても、わかる人にはわかるのかしら。そんなにわたしって、ふしあわせな顔してるつもりはないんだけど。


あの日、わたしが柳の木に近寄ったあの日。

なにもかもが変わると信じ、希望を持って立ち向かって行ったあの時、普通では考えられないことを経験してしまうことになった。

5th AVE.ではいつも、強く厳しい風に吹きつけられているため、人の心も強く鍛えられるという。

大きな柳の木の下に流れている川のほとりのせせらぎから、この世の中のありとあらゆる人の言葉のつぶやきが、形をとって現れた。

そしてわたしは、あらん限りの力と勇気を振りしぼり、その場所を目指してひたすら進んで行った。

そこへ行きさえすれば、何かが良い方向へ変わると心から信じて。

様々な感情や思惑の入り乱れる言葉たちが、すべてその発した本人の元へ帰って行く姿を目にした。

最後にわたしが見たものは、助けを求める人の心からの声だった。

わたしが一番衝撃に感じたのは、誰かに助けを求める声ではなく、誰かを助けてあげたいという、愛する人の心からの熱い声だった。


どうか、お願いいたします。私自身はどうなってもかまわない。あの人を、愛する人のことを助けてあげたい!助けてください!!


それらの声は、ほかの声とはちがい、どこまでも清らかに澄んだ心からの切実な熱い声だった。

その姿が形となり現れた時、わたしは自分自身にもそのように思っていてくれている人がいることに初めて気が付き、衝撃を受けた。

今までなんにも考えてなかったのに。あの人は、こんなわたしなんかのために、こんなに苦しんで、助けを求めて叫んでたなんて。


「ほら、もうお茶が冷めちゃうわよ!まったくソフィアちゃんは」


わたしにとって、ここはそれほど居心地よく暮らせるところではなかったんだけど、あの日以来、まわりのすべてが新しく生まれ変わったように新鮮な表情で見える。


サヨさんも、そのファミリーも、そしてまた、同じく仲良し仲間になってくださったザラさんやキミーさん、この5thAVE.のみなさんすべてが、わたしの人生にとっては宝物だと思っているのに。

でも、でも。

今はまだ、なにもかもが、落ち着いて考えられない。


一生懸命に走ってきたのに、急に立ち止まるようになってしまう感じがして、めまいと動悸と息切れで、わたしは倒れそうになる。

誰かにささえてほしいなんて、誰に言えばいいの?

今までなんにも考えてこなかったのに、なんでいまさらこんなことおもうの?

わたしの行く先は、どこを向いたらいいの?

天体の動きが地上で異変を確認できる時、わたしは一体何を思えばいいの?

もしこの背中に翼を広げて天高く飛翔することができるなら、
わたしはすぐに飛んで行けるかもしれないと思うのに。

美しい姿を見せる月を見て、わたしの心は高ぶっている。

誰もいない一人ぼっちの時なら、おそらく涙を流すのに。


「ソフィアちゃんの願いが叶いますように」

ふいに、ザラさんに語りかけられる。サヨさんよりも柔らかく優しいけど、弱々しい声。ザラさんは、すぐご近所に住むサヨさんのお姉さん。


「ソフィアちゃんに幸せがたくさんやって来ますように!」

キミーさん。明るく元気で前向きな、素敵な歌を歌ってくれた仲良し仲間のご近所さん。ありがとう。わたし、みなさんのこと、とっても大好きです!


「みんな、心配しなくて大丈夫よ。ソフィアちゃんは自分の幸せなんて、自分の手できちんとつかみとることができる人だから!」

サヨさん、ありがとうございます。あなたたちのご恩は、決して忘れません!

わたしが心を開くことができたのも、みなさんの優しさがあったからです。


涙を流すところを見られないように、わたしはそっと顔をそむけ、感謝と御礼の言葉をつぶやく。

月に変化が見られる時刻は、あともうちょっと。

わたしがここにいられるのも、あともうちょっとかも。

「ソフィアちゃんてさ、なんかこう、いつも学級委員長みたいな、義理堅いってゆうか、堅苦しい感じの律儀なところがいっぱいあったけどさ、やっぱりあなた、優しい人だわ。わたしにはわかるわ。あなたのこと好きよ、とても」

夕闇は次第に濃さを増し加え、わたしたち観客を楽しませてくれるスターは間もなく登場する。

この世の中にある大自然の営みには、計り知れない大きな力が働いていることだろうけど、いつものようにわたしたちは、ひたすら楽しく、明るく笑いながら、時を過ごしている。


この世のすべては良い方向にしか動いて行かないと、固く強く信じ続けるように。

このわたしの心にも、この人たちみたいな柔らかな気持ちと温かい優しさがあったなら、と考える。

翼を広げて飛んで行く先の人たちとも、仲良し仲間になれるのに。

大きく明るく美しく、夜空を照らし出す月を見上げて、わたしたちはみんな、楽しみにしている。

この世界が良い方向へ広がり、翼を広げて飛んで行く先にも、明るい未来があるということを。

第4話   完