自由独立ということは、人の一身にあるばかりではなく、一国の上にもあることである。われらが日本は、アジアの東にある一島国で、古来外国との交わりを結ばないで、自国内の産物のみで不足であると感じたようなことはなかったが、嘉永の間にアメリカ人が渡来するようになり、外国貿易が始まって今日のようなことになっている。 

 しかし、鎖国をやめて港を開いてからでもいろいろと議論は多くて、鎖国攘夷などといまだに言っているやからもいるのだが、この人たちは、その見る所はとても狭くて、ことわざで言うならば「井の中の蛙」でしかなく、その議論は取るにも足らないものばかりである。 

 日本にしても西洋諸国にしても同じ天地の間にあって、同じ日輪(太陽)に照らされ、同じ月を眺めて、海を共有し、空気もまた共有し、心も同じ人間であるならば、ここで余っているものはあちらに渡し、あちらで余っているものはこちらに取り、互いに相教えて互いに相学び、一方的に恥じ入ってしまうということもなく特別に誇るということもなく、お互いの便利を達することを目的としてお互いの幸せを願うべきである。 

 このようにして、天の理(ことわり)と人の道とに従ってお互いに交わりを結び、理(ことわり)を知るためにはアフリカの黒人奴隷にでも恐れ入って、人の道を守るためならイギリスやアメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱であるようなことがあるならば、日本国中の人民が一人も残らず命を捨ててでも国の威光を落とさないようにすることこそ、一国の独立と言うべきものである。 



 シナ人(中国人)などのように、自分の国以外は国ではないと言わんばかりに、外国の人を見れば「夷狄だ、夷狄だ」

(夷狄:いてき   野蛮で未発達な侵略者)

などと口にして、四足で歩いているような畜生のようにこれを馬鹿にしてこれを嫌い、自国の力も知ろうとせず、みだりに外国人を追い払おうとし、かえってその夷狄に苦しめられるといったような始末は、実に国の分限というものを知らず、一人の身で言うならば、本当の自由に達しないで、わがまま勝手に陥る者であると言えよう。