かつてモーセという預言者は、

神様から、10個のきまりごととしてのおきてを、

守るようにと啓示されました。


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天 主(てんしゅ) の 十 戒(じゅっかい)





一、
われはなんじの主なり。
われを唯一の天主として礼拝すべし。

二、
なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

三、
なんじ、安息日を聖とすべきことを おぼゆべし。

四、
なんじ、父母を敬うべし。

五、
なんじ、殺すなかれ。

       
六、
なんじ、姦淫 (かんいん) するなかれ。

七、
なんじ、盗むなかれ。

八、
なんじ、偽証するなかれ。

九、
なんじ、人の妻を恋うるなかれ。

十、
なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。



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これらを一言でいえば、

「神を愛し、隣人を自分のごとく愛せよ。」

( マタイ 22:36~40 )
ということになります。




古い時代のきまりごとは、

新しい現代社会の文明の中でも通用するのでしょうか?


人間は、考え方や生活様式が少しくらい変わったらからといって、

心そのものに大きな変革がもたらされたわけではありません。





そもそも、思考形態や環境様式の新しい状況変化は、

人間に対して平和や安息、喜びや幸福を、本当にもたらしてくれているでしょうか?






あるいはまた生活習慣だとか現実世界への認識観念、相互意思の疎通方法が、
画期的な段階にまで発展しているとからといって、



人類社会全体が公共福祉を、
もしくは価値ある財産や一般的な民衆の生命そのものを、
維持し、お互い助けあっていけるようになってきているでしょうか?





特定権力者による個人的な喜びが、

公共正義の前に優先権が与えられるように、



文明自体が袋小路に入り、

行き詰まってしまったりしてはいないんでしょうか?




弱肉強食時代の精神がいまだにまだどこかにあり、


共存共栄という真の新しい時代における、


相互繁栄の精神にまでは、


まだまだ成長していないのではないでしょうか。






文明の進歩発展により人類にもたらされたものは、


人間の根本的な性質を革新させるものではないし、



ただ目先の利益を追求する欲望の奴隷を生み出し、



本当に感謝して世界の発展を享受する人は少ない。








十戒は、廃止されたのではなく、イエス・キリストによって、


彼の愛の内に完成されました。


彼の愛とは、父なる神様の愛であり、



父と子と一つである聖霊の情熱的愛です。





十戒は、今も変わらず、

いつまでも有効なことです。





しかしながら人はいつも、

目先の現象面にばかり心をとらわれてしまい、


神様から与えられている、

真実なる愛の心について、

意識を傾けません。




真実なる愛の心とは、

あらゆるすべてに対して、

平和と喜びをもたらします。






なぜ人は、

愛に心を満たし続けることをせず、

頭でっかちになってしまい、

目先の現象に心を奪われてしまうのでしょうか?



人間の思い込みというのはとてつもなく頑迷で、

自分自身の平和や幸福が、

なくなってしまうのではないかと、


恐怖に支配されるからです。






とりあえず、いまこの自分自身が、


目に見えている状況だけは、


解決することに尽力しておかないと、



いつか後々大変なことになったら困るから・・・・。





多くのものが、ここにおいて大きなあやまちを犯しています。


あまりにも無用な心配をしすぎて、


取り越し苦労や過ぎこし苦労を、

不必要なまでに抱え込むことになってしまっているのです。





人間に与えられている性質とは、


本来は、良心が主体です。



良心こそが、

人間性の本質です。




良心があるからこそ、


人は人として生きることができるようになります。




人はもっと、


人間本来の可能性に信頼していかなければならないことでしょう。



自分たちに、

もっと信頼して、


自信をもって生きていくことです。



十戒を、神様から与えられる言いつけ、命令だと思ったらそれまでです。


つまり、いましめとかおきてとかのきまりごとは、


厳格に守り通し続けていかなければならない、という風にみるより、



あぶない道やいけない道に立ち入ることを自然に回避させてくれている、


良心的な神の采配だ



と思えるかどうか。





本当の良心は、


良心をもっている人のところに引き寄せられるからです。