・・・・・


人間の目から見たら真理というものは、


誰にでも明らかにされている片一方の表側の面と、


誰にも認識することができないような、


隠されたもう半分の裏側の面があると言えます。






アインシュタインの言葉としてよく知られているものに、次のような言葉があります。



Subtle is the Load,
however he is not malicious.


( Raffiniert ist der Herr Gott, aber boshaft ist Er nicht. )



「神様は老獪(ろうかい)
だが、意地悪ではない。」

もしくは、


「神様は老獪ではあるが、
人びとへの悪意はない。」






老獪というのは、どういう時に使う言葉でしょうか。


老猾(ろうかつ)とも言い、「経験を積んでいて、悪賢い」という意味です。


「老年者の狡猾さ」というようなことでしょうか。



世俗的な表現で言うなら、
「年寄りのずる賢さ」とでも言えるでしょう。




経験豊富で知恵のある老人が、

未経験な若者を手玉に取るような、

年齢層が離れた大人と子供による、

世代間格差から生まれる対立と試練を、

暗に意味している言葉かもしれません。




また、老獪と言っても、単なる意地悪というよりも、

短絡的かつ浅慮無謀な若さゆえのあやまちを、


熟練達観した知恵者の聡明賢慮さによって、


正しく教え導いて、間違いを直してあげるというような、


優しさも厳しさも兼ね備えた、

優れた保護者的なイメージがあるかもしれません。






神ほど経験豊かな存在は無いのだから、


どうしてこんなことがあるの?

何故そんなに意地悪なの?


・・・そういった風に感じるかもしれませんが、


悪意があってやっているのではなく、


人間の理解をはるかに超えた意思で

世界そのもののあり方自体を運営している・・・・・・




とでもいったところかもしれません。




やはり人間程度の思考で、

神の思し召しを知ろうなどとして思い上がってはいけないのでしょうか。





かつて古代ギリシャ時代、
デルフォイにあるアポロン神殿には

「身の程を知れ」ということが書かれてありました。


ギリシャ神話の神々が人間に警告をしたように、

「人間ごときが神の意図を知ろうとしてはならない」

ということでしょうか。



しかし反面、

こうも言えます。





「神は純真だ。
しかし稚拙ではない」


「神は単純にして素朴だが
無頓着や無責任ではない」





アインシュタインが言ったのは神の真理の表側です。



神を表現するために、

人間の中で賢いものの代表として、老年者の狡猾さを引用し、

そこには人間的な悪意が存在しないという。





それは真理の半分にしか過ぎない。



悪意が存在していないばかりか、


悪意とは真逆のものでみちあふれていることは、


表現しきれてはいない。



悪意が存在しないのではなく、

悪意に執着する者と、

愛の心に生きる者とを、


親の心で見ている。


それぞれに、必要なものが与えられる。


愛には愛を。


人の心はそれぞれに、


ふさわしいあり方で

惜しみ無く提供される。


悪意に対しては、

それと同等なものを。






科学者により、

悪意ではなく、
愛が研究され、

愛という名の神の本体が

解明されようと
するのならば、


神の真意も、
自然にわかる。




人間の分際でありながら、

神の聖なる領域を結論付けること、


人の身でありながら神を定義することは、

元来は出来ないことなのかもしれない。




だが、神を指摘しようとするならば、


神に対して意見をしようとしているならば、


真理の表側と裏側を、

あわせて表現しないことには始まらないのではないだろうか。



人類はまだまだ幼い子供の次元にいて、


多くのものが幼稚な原初的な発展段階にとらわれている。




高度な展開に上昇しようとして探求する魂も、

数多く存在していることは確かだが、


そういう人たちは常にいつでも目覚め続け、

愛する者の心の言葉に耳を傾けている。



賢い花嫁のように。






隠された真実を見ようとして探求することは、



人間の動機の方も、


真実でなければならない。

自分自身の心に対して。





☆⌒(*^∇゜)v