高橋源一郎さんの「一億三千万人のための『歎異抄』」(朝日新書・2023)を読んでいてハッとしました。

 

 

『歎異抄(たんにしょう)』は、鎌倉時代後期に親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えを弟子の唯円(ゆいえん)がまとめた、日本の代表的な仏教書ですが、その中に「非僧非俗(しかればすでに僧にあらず俗にあらず)」という言葉が出てくるそうです。

親鸞は、35歳の時、興福寺の僧侶にあらぬ罪を朝廷に訴えられ、越後の国へ流されています。しかも僧であることを認められず、藤井善信(フジイヨシザネ)という名前をつけられ、罪人の扱いとなりました。彼はこの俗名を受け入れなかったそうです。

僧でもなく、俗人でもなくなった彼は、素の自分に向き合わざるを得なくなりました。この部分に私はハッとしたのです。一部引用します。

 

では、「非僧非俗」の自分とはなんだろう。自分はなんのために生きているのだろう。自分の役割とはなんだろう。そのことを「シンラン」は生まれて初めて突き詰めて考えた。

 誰にもそんなときがある。

 それまで当たり前だと思っていたことが崩れ去る。自分の境遇が激変し、みんなの見る目が変わってしまう。社会そのものがすっかり変わり、自分が信じていたものが、突然意味のないものになっている。永遠に続くと思っていたものがなくなってしまう。変わらぬ価値があるはずだったものが無価値になっている。※「一億三千万人のための『歎異抄』」 P143-144から引用

 

彼も私と同じく「第三の反抗期」を経験したのだ。

 

「第三の反抗期」とは、泉谷閑示氏が『「自分が嫌い」という病』(幻冬舎新書 2025)で、初めて発表した概念で、私は、その体験を近く出版する本で書きました。

私の場合は、専業主夫という立場を選択した時が「素の自分に向き合う」機会となりました。その後のウロチョロ人生を歩む中で、果たして自分にはモチベーションがあったのか?という問いにぶつかりますが、その答えに窮するうちに、やがて、身体症状を伴い出します。

このように「第三の反抗期」は、心身の不調として発現するために多くの人はその意味を受け取れず、むしろ、厄介もの扱いします。ある人は、更年期障害を疑い、ある人は加齢と医者に軽くあしらわれ、ある人は、難治性のうつ病と診断され、長期の服薬をしますが、スッキリとはしない。生きにくさ、疎外感として感じられる人もいます。実は、「こころ」からあなたに送られてきた大切なギフトなのに…

私はこの大切なことをあなたに伝えます。「第三の反抗期」を機に内省し、自分に向き合った人は、それまでの自分とはまったく違った世界観を生きることになります。つまり、生き直し(Reborn)を経験するのです。

2026年10月2日にNHK奈良放送局「かんさい熱視線」で放映された「ゆりは 10歳の決断」は、生まれて次の日にオストメイト(病気や事故などを理由に、お腹にストーマ(人工肛門・人工膀胱)という排泄口を造設した人)になった少女の生き方と、励ましつつも心配する両親の葛藤を描いたドキュメンタリーでした。

この番組を観ながら、私たち夫婦は、生まれつきユニークな体質を備えた我が娘が小学校に入学した時に、妻がクラスメイトに向けて書いた「一年一組のみなさんへ」というメッセージを思い出していました。

ユニークとは、誇れるその人の個性でありながら、他のみんなとは異なることを引き受ける覚悟を伴うものです。

だからこそ一番身近な親がそれを支えるのですが、その親もまた駆け出しなので、未熟な親を更に支えてくれる双方の両親であったり、友だちの理解が必要になります。私たちは幸運でした。だから、「一年一組のみなさんへ」を届けられたのだと思います。

翻って考えると、虐待やネグレクトが後を絶ちません。これらを個人の責任にすることができるでしょうか?私たちは、現代の子育てが当たり前だと思っていますが、核家族や一人親で子どもを育てるようになったのは、ごく最近になってからです。私が、近々出版する本でも書きましたが、現代人はとても不自然な子育て環境にあるので、様々な問題が起きて当然で、その余波を受けるのは子どもです。

虐待やネグレクトまではいかずとも、「私は愛されなかった」と自分の存在に疑念を抱いてしまう子どもは少なからずいるでしょう。

なぜなら、子どもにとっては親は絶対的な存在なので、「自分が愛されないのは自分に問題があるからだ」と考えてしまいます。本当は親が未熟で余裕がなかったからなのにです。「自分が嫌い」はこうして築かれます。

以下は、このような悩みに答えた毎日新聞のコラム「人生相談」2026年10月3日の「私はどんな存在だったか」への回答です。高橋源一郎さんはこう書き出しています。

子どもは親の負債ではありません。どんな財産よりも豊かな富で希望で夢なのです。
生まれた。赤ちゃんだ。ちっちゃい。可愛い。生きてる。生きて泣いている。すごい。生命ってすごい。教えてくれて本当にありがとう。
(毎日新聞「人生相談」2026年10月3日)
(以下、生まれてくれた感謝が続きます)

すべての親は毒(考え方の偏り)を持っています。これは仕方がないことです。だから、その毒を薄めるために子どもはなるべく多くの大人で見守ることが大切になります。

 

昨年書いた原稿を近く本として出版します。一時校正をして、出版社に修正をして頂き、確認をしたのですが、生成AIにも校正を手伝ってもらおうとファイルをアップロードしたところ、まだ数か所の誤字や脱字、言葉遣いの見直しが必要な箇所を指摘してくれました。

今更ながら、大したものだなぁと感心したのですが、彼も完璧というわけでなく、誤った指摘も見受けられました。便利さは感じながらも、AIの指摘や回答を鵜呑みにするのではなく、良きパートナーとして付き合っていく必要を実感しました。

 

生成AI、フィジカルAIと、今年だけでもこの分野は、加速度的に伸びています。開発企業のトップは、ここに来て彼らがやがて人類に害を与えるかもしれないという警鐘を鳴らしましたが、米大統領は、この分野で中国に先を行かれるわけにはいかなという一見もっともらしい建前で規制に消極的です。

 

そして、落としどころとして、開発企業6社はホワイトハウスで自主規制で合意しました。公的な機関に集まって署名をしただけで、政府がどのように関わるのか、法的拘束力はあるのか不明です。これをコーポレート・ガバナンス(企業統治)と解釈して良いものでしょうか?僕は懐疑的に見ています。

 

まず、大前提として、彼らは営利企業ですから利益を追求するのが使命であること。また、AIの進化や普及はもはや止めらません。一旦手にした道具を捨てることは不可能です。だから、企業側は布石を打った。そして、米大統領のメンツも立ちました。

 

「ほら、あの時、警告したでしょ。」

「政府も監督役を担う委員会を設置を提案したじゃないか(まだ検討中)。」

 

我が国でも来年になれば、AIに職を奪われる人、減収を余儀なくされる人が続出し、社会問題化することは目に見えています。そして、やがて映画「ターミネーター」や「マトリックス」の世界が現実になるかもしれません。

 

くわばら くわばら
しょうへい しょうへい
※関西の一部の人にしかわからない…(-_-;)

 

 

たしろ ちさと 作・絵
ジョニー・ギョーム 原案

 

この絵本を図書館に借りに行った。土曜の朝から遊びに来ていた4歳の孫も誘った。彼女は図書館が好きだ。僕には狙いがあった。僕は、彼女の「なんで?」が大好きで、あたまにタコがのった少年に「なんで?」と言うだろう。彼女にいつまでも「なんで?」を感じてほしい。これが願いだ。

 

と、おとなの思惑とは異なる反応をするのが、子どもの常だ。彼女は僕に…


「切って!」と言った。
「え?何を切るの?」
「手を切って!」
「え!」

タコの足を切ってほしいらしい……

 

なるほど。僕は、この前、生ダコを造りにして、酒の肴にしていたら、彼女は、僕のアテを横取りし、ウマウマと食べていた。

 

「ちびくろサンボ」で木をグルグルと回り続けて、遂にバターになってしまった虎をおいしそうと感じたり、ぐりとぐらが森で焼いたホットケーキを目の前に感じることができたのが、彼女が感じた「今」なのである。

 

彼女は「あたまにのったタコ」のメタファーに自ずからたどり着くだろう。「なんで?」が彼女の中にいつもあれば。彼女は、それだけの感性を露わにしているし、ポテンシャル(潜在能力)の塊でしかない。僕は、それを悦ばずにはいられない。つまり、孫バカなのである。

 

愛とは、ポテンシャルを信じることだと確信してる。余計なお世話(これを世間一般には「躾」というらしい)は必要ない。

 
 

 

倉本聰さんが亡くなった。私が初めて彼の作品に出会ったのは、1975年の「前略おふくろ様」で10歳だった。集団就職で上京し、板前修業をする主人公を萩原健一(しょうけん)が演じ、ドラマ冒頭で「前略おふくろ様…」とナレーションからはじまるのを覚えている。1台のテレビを家族で観ていたあの時代…

 

そして、代表作「北の国から」の放送開始が1981年、私が16歳の時だから、私の人生の多くの時間を倉本聰さんの作品に触れながら生きてきた。ラーメン屋の場面、土が付いた壱萬円、黒板五郎(田中邦衛)が新巻鮭を持って謝りに行くシーン、純(吉岡秀隆)が不良になったり、蛍(中嶋朋子)が不倫関係に陥ったり… さだまさしのスキャットが雪景色を想起させる。

 

新聞によると遺作となった映画「海の沈黙」は、鎌倉時代の作と思われていた壺が実は現代のものだったという自身の20代で見知った経験が着想となっているそうだ。彼は取材にこう答えている。

「皆が称賛していたものが、うそだとわかると、価値がとたんにゼロになる。変じゃないか。と思ったんです。」「評価は自分でするものだと思うんです。」

毎日新聞朝刊 2026.9.29

 

ここから少しだけ私の話。子どもの頃、浜辺で石を拾って帰る。丸い石。楕円形の石。名前をつけて机の引き出しに大切にしまってた。保育所の倉庫の前の土がダンゴ作りには最適で、それに砂をかけては磨いた。それは僕の宝物だった。当時、私は「主観」に生きていた。

 

なのに、いつの間にか「他人の評価」が「主観」を凌駕して、毒されていった末に、私は「うつ」になった。それは本来の自分から送られてきた大切なメッセージだった。

 

人間の「あたま」は、コンピューターのようなものなので、質的なものを評価できない。「金額」や「偉いさんの評論」や「いいね」の数など量的なものに偏り、本来、私たちが持っている「こころ」の直観力や即興性を衰えさせていく。倉本聰さんは、そのことに当の昔に気づいていて、富良野に移住して、富良野からそれを訴え続けた。彼は死んだが、彼の作品は残る。

 

「北の国から」で、私が印象に残っているラーメン屋のシーン。黒板五郎と純、蛍がラーメンを食べている。女性店員がまだラーメンが残っている蛍の器を下げようとする。「子どもがまだ食っている途中でしょうが」と怒る。食べ残しを当たり前のようにする今の子どもたちと親にこの感覚が伝わるだろうか?そして、倉本さんは、この端役である女性店員にも履歴書を書いていた。彼女はシングルマザーで子どものお迎えに行かなければならなかったのだ。

 

このような「ディテール(詳細)にこそ神は宿る」。このような仕事(Work)はAI(あーてぃふぃしゃるいんてりじぇんす)にはできない。今後、多くの仕事がAIに取って代わられ、その時に世の中は騒然とするだろう。チャンスじゃないか。今こそ、人間にしかできないことを目指そう。

新聞記事によると8月末に東京でハンナ・アーレントに関するシンポジウムが開催されたそうだ。ハンナ・アーレントは、第二次世界大戦でナチスから逃れるためにアメリカに亡命したユダヤ人政治哲学者だ。

 

シンポジウム開催の名目は生誕120年だが、なぜこのタイミングでハンナ・アーレントなんだろう?と思いながら記事を読み進めると「忘却の穴」という彼女が『全体主義の起源』という本で示したキーワードが見出しに踊っていた。

 

アーレントによれば、真の脅威は「死亡」という事実すら残さず、存在の痕跡すべてを消去することで、記憶の抹消 、つまり、受難者が「かつて生きていた」ということ自体を人々の記憶から消し去り、誰一人としてその死を悼むことすらできない状態を作ること、それが「忘却の穴に投げ込む」とのことだ。

 

人間は、このようなひどい仕打ちをしてしまう存在だ。例えば、いじめで最もひどい仕打ちは何か?それは無視であると私は思う。いじめの対象者の存在を「忘却の穴に投げ込む」 のだ。だから、若者の自殺者がこの国では多い。

 

翻って、現状を考えるために歴史の振り返りを少し。かつて、我々の先輩たちは大きな過ちを犯した。その結果、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下、沖縄での集団自決、空襲によるたくさんの一般市民の殺戮を経験した。これはジェノサイド(大量殺戮)と言っていい。相手側にも言い分はあるだろう。戦争とはそんなもので、結局、傷つくのは市民だ。

 

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」が良い意味でも悪い意味でも日本人の国民性であるが、多くの先輩たちが流した血と涙に私は思いを馳せたい。経験はしていなくとも資料を読み、映画や小説、語り部の話に触れたい。そして、子や孫に伝える。それが私たちのできることではないだろうか?ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』の中で こうも書いている。

 

「忘却の穴(完全に消し去る穴)など存在しない。人間のやることにそこまで完璧なものはない。忘却を可能にするには、この世界はあまりに広すぎ、人間はあまりに多すぎるのだ。





アクセルとブレーキの踏み間違いによる交通事故があとを絶たない。このような事故は、私が子どもの頃には記憶がない。実は、昭和の頃にはあり得なかった事故だからだ。AT限定運転免許証が交付されたのは、1991年(平成3年)11月で、それ以降、このような事故が徐々に増えてきた。

 

AT車(オートマ)は、確かに楽だ。私が免許を取ろうとした頃にはMT(マニュアル車)でしか教習を受けることができなかった。発進時にはシフトレバーを一速の位置に入れ、アクセルを少しずつふかしながら、クラッチを足で操作し、エンジンの動力をギアへと繋げる。めんどくさい。だから、MT車が良いとは言わない。世の中は常に流れる。逆進することはない。

 

AI(Artificial Intelligence アーティフィシャル・インテリジェンス)が今回のテーマだ。

 

今年7月頃からAIの開発スピードを抑制すべきだと当の開発企業のトップが言い出した。これは、あなたの大切な人が、AIに殺されるかもしれないぐらいのリスクを負っているのだというメッセージと私は捉えるべきだと考えている。

 

人類は、便利になる度に何かを犠牲にしてきた。その歴史を知っているのは年長者であるあなただ。そして、それを若者に伝えられるのは、不便を知っているあなたしかいない。昔は良かったで終わらせてはいけない。

 

佐賀の地方競馬に“パドマート”という競走馬がいるらしい。報道によると、デビュー以来、142連敗中で、かつて「負け組の星」と呼ばれた“ハルウララ”の113連敗を越え、「新・負け組の星」と呼ばれているとのこと。

 

連敗中の彼女(牝馬)は、負けを意に介さない。当たり前だわな。^^
サラブレットに生まれて、人間が大勢いる前で走ることになる。競争心が強い馬と走る時、彼女は怯えて、実力が出せない。なんとも愛おしい。

 

ところで、我が国において「勝ち組」「負け組」という言葉が出現したのは、1990年代後半から2000年代初頭にかけてで、社会人として歩み出した私は、その真っ只中にいた。特に考えなくても、多数派(マジョリティー)についていけば、それなりに何とかなった時代は、バブル崩壊を機に終わりに向かった。今や幻となった「終身雇用」もこの頃、崩壊しはじめた。

 

戦後、先輩たちが懸命に「幸せ」なろうと奔走した努力と時間は、「勝ち負け」を意識した時点で瓦解した。

 

昭和33年を舞台にした「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画は、当時の人たちが「幸せ」なろうと、それを夢見ることができる希望を持てた時代を活写している。

 

近く私が出版する本で、なぜ人は「勝ち負け」にこだわるのかを考察してみた。そして、「幸せ」とは何か?について真面目に考えてみた。これは、多くの「心」ある人にとって重要なテーマだと、私は思う。充実した、悔いのない人生を目指す人に響くことを希う。

 

“パドマート”は、「新・負け組の星」などではない。それは、人間が勝手に作り上げた偶像(アイドル)だ。彼女は、いつも愛らしい。そのままでいい。

劇作家・演出家・役者である野田秀樹さんのビンタビュー記事「AIの時代に思う」で、以下のような彼の言葉があります。

「考える」ことは、科学で言えば、基礎科学のようなもので、効率的でなく、すぐに結果もでない、早い話がすぐに金にならない。でもひたすら「考える」ことで、人間の世界は維持されてきたし、維持されていくものだと思います。(中略)いい演劇も同じで、見終わった後に、そこに簡単な答えがあるのではなく、答えられない難しい問いだけがある。「人生」にしても「愛」にしても同じで、実は、答えではなくて、難しい問いでしかない。それを生きる人間の姿は、昔から変わらないし、これからも変わらないと思います。どれだけ、技術が新しくなろうがね。(2026年1月16日毎日新聞朝刊「論点」)

2025年から本格的なAI時代に突入しました。私自身も文章を書く上で、下調べをしたりするのに生成AIとやり取りをします。情報面での「速度と量」には驚かされますが、「考える」という人間らしい営みとは違います。

人間は、考えることで「人間には解決できない難問が存在する」ということに気づきます。?(疑問符)で終わるのを許せるのが人間であり、オープンエンド(結論を出さない)で、答えに余韻を残し、更なる問いへ誘うのが人間の「考える」なのだと私は思います。.(終止符)で終わろうとするAIにはできません。

内弁慶だった私は、一念発起して小学5年生で児童会の役員に立候補しました。6年生では会長も務めます。そこで学んだのが、「少数意見の尊重」でした。以後、様々な団体、様々な場面でリーダーシップを取ることになるのですが、原点はあの小学校の児童会にあります。

民主主義を謳う日本の社会で最終的に団体の方向性を決めるのは多数決という制度です。公はもとより、任意の団体であっても、ほぼこの仕組みを採用していると思います。多数決で物事を決めること自体に問題ないのですが、この制度がいかに不完全であるかということを常に自覚しておかねばなりません。

何が不完全かというと、95 対 5 であろうと、51 対 49 であろうと、少数派となった意見はすべて切り捨てされてしまう制度的欠陥があるからです。リーダーたるものは、たとえ自分が多数派の意見側だったとしても、少数派の意見に耳を傾け、彼らが納得できるレベルでの意見の反映を試みなければ、民主主義は形骸化してしまいます。

近頃は、この民主主義の形骸化が目立つように思います。皆さんは、どうお感じになるでしょうか?