劇作家・演出家・役者である野田秀樹さんのビンタビュー記事「AIの時代に思う」で、以下のような彼の言葉があります。

「考える」ことは、科学で言えば、基礎科学のようなもので、効率的でなく、すぐに結果もでない、早い話がすぐに金にならない。でもひたすら「考える」ことで、人間の世界は維持されてきたし、維持されていくものだと思います。(中略)いい演劇も同じで、見終わった後に、そこに簡単な答えがあるのではなく、答えられない難しい問いだけがある。「人生」にしても「愛」にしても同じで、実は、答えではなくて、難しい問いでしかない。それを生きる人間の姿は、昔から変わらないし、これからも変わらないと思います。どれだけ、技術が新しくなろうがね。(2026年1月16日毎日新聞朝刊「論点」)

2025年から本格的なAI時代に突入しました。私自身も文章を書く上で、下調べをしたりするのに生成AIとやり取りをします。情報面での「速度と量」には驚かされますが、「考える」という人間らしい営みとは違います。

人間は、考えることで「人間には解決できない難問が存在する」ということに気づきます。?(疑問符)で終わるのを許せるのが人間であり、オープンエンド(結論を出さない)で、答えに余韻を残し、更なる問いへ誘うのが人間の「考える」なのだと私は思います。.(終止符)で終わろうとするAIにはできません。

内弁慶だった私は、一念発起して小学5年生で児童会の役員に立候補しました。6年生では会長も務めます。そこで学んだのが、「少数意見の尊重」でした。以後、様々な団体、様々な場面でリーダーシップを取ることになるのですが、原点はあの小学校の児童会にあります。

民主主義を謳う日本の社会で最終的に団体の方向性を決めるのは多数決という制度です。公はもとより、任意の団体であっても、ほぼこの仕組みを採用していると思います。多数決で物事を決めること自体に問題ないのですが、この制度がいかに不完全であるかということを常に自覚しておかねばなりません。

何が不完全かというと、95 対 5 であろうと、51 対 49 であろうと、少数派となった意見はすべて切り捨てされてしまう制度的欠陥があるからです。リーダーたるものは、たとえ自分が多数派の意見側だったとしても、少数派の意見に耳を傾け、彼らが納得できるレベルでの意見の反映を試みなければ、民主主義は形骸化してしまいます。

近頃は、この民主主義の形骸化が目立つように思います。皆さんは、どうお感じになるでしょうか?

「問いで繋がる場」をプロデュースしていこうと思っています。「なんで?」を気軽に出し合える場です。僕は、2015年頃から「自分らしく生きる」というワークショップを散発的に開催していました。このベースになったのが、精神科医である泉谷閑示さんのセミナーです。対話の場としての試みに手応えを感じました。

これをもっと気軽に行えないか?と考えていた時に、梶谷真司(東京大学大学院)の「考えるとはどういうことか」(2018)で Philosophy for Children(子どものための哲学)略:P4C の存在を知り、「やってみたい」と思ったのです。

というか、「今、やらねば」という危機感が僕にはあります。世の中に潜伏していた分断の予感は、コロナ禍によって鮮明になりました。そして、今、世界は危うい方向へと既に足を踏み入れています。

僕は、若い世代に希望を持って生きてほしいと思うし、そのための道標(みちしるべ)を残すのが大人の責務だと考えています。 2026年1月7日の毎日新聞に永井玲衣さんのインタビュー記事が掲載されていて、運営に関する細かい留意点にも気づくことができました。

「言葉が遅い」と悩む育児中の親御さんがいる
気持ちは理解できる
心配ないよ 大丈夫 と僕は返す

ところで

外国語を学ぼうとする人がいたとして
早く習得する人 遅い人 様々だな
なぜなんだろう?

頭の良し悪し?
記憶力?
そんなはずないよね

赤ちゃんは生まれて
専門家に学ぶでもないのに
テキストも使わないよ

なのに

3歳頃にはそれなりに話せるようになるじゃない?
なんで?
不思議じゃない?

だから、僕は、3歳の孫の
「なんで?」
にとことん付き合う
知りたいから それを

なんで?なんでなの?
なんでかなぁ?
一緒に考えてみよか!

確固たる真実みたいなものがあって
それを誰かが知っていると思い込んでて

師匠とかメンターって言うの?
探してみたけど未だに見つからない
彼らに出会えば楽になれると思ってた

そりゃ楽だよね
そんな人がいりゃ
その人に尋ねれば
なんでも解決するんだから

でも 遂にそんな人はいないと
確信した途端
僕の奥の方で 呟き出した誰かがいて
その声に耳をすませてみたんだ

微かな声
「なんで?」
そう囁いている

その声を僕はアンプ(内省)となって増幅する
「なんで?」
うん 良い調子だ
うん その調子だ

年始にNHKの「神様の木に会う にっぽん巨樹の旅 」という番組を観ていた。全国のいわゆる御神木と呼ばれるような巨樹の巡る企画だ。

僕たち夫婦は、このような巨木巨樹やその場が醸す雰囲気に惹かれ、訪れることがある。玉置神社の杉巨木群はその一つだ。

 



なぜ、私たちはこのような異様の木に魅せられるのだろうか?番組を観ていて気づいたことがある。このような木の生育過程に思いを馳せているのだ。

雷に打たれたり、獣たちに樹皮を食われたり、山火事にあったり、人による伐採にもあったかもしれない。幾多の試練を経て、幹には洞ができ、枝は複雑に絡み合い、死んでは再生し、根を張り巡らせていったのだろうと思う。その生命力に人は畏敬の念を抱いたのだろうと思う。木はオンリーワンになった。

人も同じではないか?真っ直ぐに伸びることに憧れはするが、どうもそうはいかないらしい。踏まれ、揉まれ、時には傷つき、挫け折れ、それでも「生きる意志」のもとに成熟の道を辿ろうとする。その姿を私は美しいと 思う。

ま、ええか
ま、しゃーない

これは僕の口癖で
独り言のように言うこともあれば
誰かの前でも言ってるらしい

昔 それを指摘されて
なんだか揶揄されたような気になったことがある
他人の言葉が気になる時はダメな時

還暦を迎えて確信したのは
この言葉は魔法の言葉

自らの執着に気づく言葉
次善策に移る勇気の言葉

このやり方で行き詰まるなら
別の方法を ま、ええか

やってみたけど 実らない時には
撤退しよう ま、しゃーない

あっちに行ったり こっちに行ったり
突っ込んだり 止まったり 引き返したり
順番を替えたり 表現を代えたり
いっそ ごそっと削ってみたり

ウロチョロ人生が 僕の人生

ま、ええか
ま、しゃーない
そう呟きながら
少しずつ進めばいい

僕の耳から手を突っ込んで
無知と足らずを掴み出す
そしたらいくらか…
ちっちっち

僕の鼻から手を突っ込んで
ビビリとセコさを引きずり出す
そしたらいくらか…
ぴっぴっぴ

僕の臍から足を突っ込んで
破廉恥と無節操をドン蹴り出す
そしたらいくらか…
そしたらいくらか
スッキリするかな

我欲から大欲へ
立って半畳 寝て一畳

気になった本があると、まずはカーリルで図書館の蔵書検索をするのがクセになってる。近隣の図書館で借りて読んでみて、手元に置きたいと思ったら購入している。年末にふとこの絵本のことが思い出されたので借りてみた。



「シナの五にんきょうだい」(瑞雲舎)

私が通っていた保育園にあった絵本だ。他にも絵本はあったはずだが、半世紀以上経った今も想起されたということは、当時の私の価値観のネットにまずひっかかり、現在の私の価値観のネットにもかかり続けたということだと思う。

今、この絵本を置いている保育所やこども園は少ない。クレジットを確認すると初版は、1938年にニューヨークで発行されていた。年代もそうだが、タイトルや絵が差別的だという理由で淘汰されたのだろう。「ちびくろサンボ」等の名作も同じ運命を辿った。

それはさておき、人の価値観は、小学生になる頃には確立しているはずだと、私は考えている。そして、それは、まだ混じり気がない純粋なものなので、大切にしたいと還暦を迎えた今、更に強く思うようになった。

人は、自らの価値観のネットにかかるものは記憶し、かからなかったものは忘れるという素晴らしい能力を備えている。コンピューター諸君は忘れることができない。人間ってスゴイやん!

自分が5歳の頃に大切にしていたモノや興味のあったコトガラに思いを馳せてみよう。私は、私の5歳の頃を尊重しよう。おそらく、それが残された人生を豊なにすると信じている。

図書館には孫を連れて行くことが多いので、彼女が読みたい絵本も一緒に借りることになる。彼女の今のお気に入りは、とよたかずひこ作「ももんちゃん」シリーズ。彼女の価値観形成の過程に関わることができている喜びである。

挫折とは、道半ばで挫け折れることです。人は挫折すると、もれなく絶望するのですが、完全に望みが絶たれたわけでなく、一縷の望みにしがみついている時に、最も苦しみを感じます。実は、絶望の正体は「執着」なのです。

 

 

名著『夜と霧』は、強制収容所という想像を絶する過酷な環境下で、人は何を感じ、どうなるのかを、収容者の立場から描いた体験記です。その一節を引用します。

 

「わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。」V.E.フランクル『夜と霧』P145

 

映画「栄光のバックホーム」を鑑賞しました。
https://gaga.ne.jp/eikounobackhome/

「なんで俺なんだよ?」「どうしてこの子なの?」

過酷な運命にさらされた本人や家族は運命を恨みます。しかし、絶望の淵にある時こそ人間の真価が問われます。自虐的にならず、破壊的にならず、新たな可能性を求め、支配されることを拒否し、精神の自由を訴え続ける。その姿に人は感銘を受けます。

この映画を観た時に公判があった「安倍晋三元首相銃撃事件」の容疑者との対比で考えてしまいます。