まず初めに

 三島由紀夫の本というとどんな印象を世間は抱いているのだろうか。僕も何冊か三島由紀夫の本にチャレンジしたことがある。ざっくり簡潔に言えば...

「難しい!!」

「表現が大げさ!!」

である。「金閣寺」や「潮騒」はなんとか読破できたが、「仮面の告白」はいまだに読破できていない。読書家を目指している者にとっては三島由紀夫の本は必読なんだろうけど、ブログ主の読解力はまだまだ及ばないようだ。
 そんな僕が読みやすさとおもしろさでオススメするのが三島由紀夫の「命売ります」である。この本は中高生でもおそらくだがサクサク読み進めることができる文で書かれている。
 

 あらすじ

 主人公である羽仁男がひょんなことから自殺を試みるも未遂で終わってしまう。そこで羽仁男は元々はなかったはずの命であるからと思い切って命を売るという商売を始める。命を売るというのは要は死ぬ前提で危険に飛び込むような人柱になる事である。羽仁男は命の商売をしていく中で様々な死の場面に遭遇することになる。妖艶な若い女と性行為をしながら銃殺されることを依頼されたり、飲んだらあらゆる自殺行為に及ぶことがなってしまう薬を飲まされたり、吸血鬼のような生態になっている女の餌食になったり、国家間での諜報活動のための捨て駒扱いにされたり...。でも羽仁男は生き延びてしまい、命を売ることで得られた高額な依頼料が手元に残ってしまう。
 転機となるのは、貯まりに貯まったお金で適当な場所に引っ越しをするときの場面だ。とある不動産紹介店で瘋癲風の30歳手前の女である玲子と出くわし、彼女の紹介する優雅な物件に羽仁男は引っ越すことになる。玲子は風評被害により、近い未来に発狂することになるだろうと思い込んで自暴自棄になっており、なぜか羽仁男と出会う前から彼の写真を所持していた。命の売買について深く考えてなかった羽仁男に不吉な影が差す。そんな玲子と羽仁男は二人で過ごしていく中で、彼女の意外な一面を知ることになり、未婚でありながら夫婦のような共同生活を送る事になる。だが、とある夜に玲子に毒入りの酒を出された羽仁男は一緒に死ぬことを拒絶し、二人は言い争いになり羽仁男は玲子から逃げ出すことになる。死ぬことが怖くなってしまった羽仁男であった。
 そして羽仁男は玲子から逃げている最中に、彼を始末しようと企んでいる組織に追われていることを知る(その組織は小説内でACSと呼ばれている)。命を売っていたころにはなかった死の恐怖に怯える羽仁男は、宿を転々としていくものの、彼を追う組織から逃げ出せない。そしてとうとう捕まってしまう。実はACSの掌で踊らされていたことが判明するが、羽仁男の機転で脱出することに成功する。そして逃走中に立ち寄った先の交番では、羽仁男は警察にまったく相手にされずに絶望に打ちひしがれて物語は終わる。
 

 感想

 僕はこの小説を3回読んでいる。だけどこの小説を理解しきれていない。疑問点や印象に残った点をいくつか挙げてみたい。

・文字がゴキブリになってしまうとはいったいどういうことだろう?そしてそれを見て羽仁男が死にたくなったのはどうしてなんだろう?

 もし本当に羽仁男がゴキブリになっていく文字を見ていたのだとしたら、それは幻覚じゃないかということになる。この小説はSFではなく普通は文字がゴキブリになってしまうことはない。当時の羽仁男はすでに幻覚を見るほど追い詰められていたのか、あるいは文字がゴキブリになったというのはあくまで比喩なのだろうか。どちらにしても羽仁男がこの出来事を通して感じたのは、生きることに対する虚無感なんじゃないかと僕は考える。

・物語の中盤くらいまでは死ぬことを恐れていなかったのに、玲子に毒を盛られそうになった時やACSに追われている時に死の恐怖を強く感じたのはなぜだろうか?

 注意深く小説の内容を確認してみると、実は少しずつ羽仁男の「死」への考え方が変わっていってるのかもしれない。例えば自殺をするのが億劫になっている描写がある。また、命のやり取りを何度か目撃するうちに生きている実感を感じるようになっていったのかもしれない。もしかして○○かもしれないと推測するのは簡単だが、○○だから主人公はこうしたんだ!というような理解ができないのがもどかしい。

・物語が終了してしまった後の羽仁男はどうなってしまうのだろう?

 これは以前にブログで掲載した「むかし僕が死んだ家」の感想文でも同じような事を感じたものだ。小説が終わってしまってからも登場人物のその後が気になってしまう作品って好きなんだよなあ。またしてもACSに追跡され続けるのか、はたまたACSからすっかり忘れ去られてしまったのか。
 三島由紀夫の大衆文学があまり多くないのは残念である。もっとこういう小説が読みたかった...