向こうの方からやってきた | 恋愛小説家

向こうの方からやってきた

「人を余計に緊張させない雰囲気がいい。」

あなたが教えてくれた私のイイトコロは

それまで誰に貰ったどんな褒め言葉より嬉しかった。

だからそれを今も胸に抱いて、大切にして生きている。


大きな樫の下で見上げた15時半の冬空は灰色だった。

煌びやかなオーナメントがぶら下がったツリーの写真を撮りながら

ウェッジソールのパンプスの中で

つま先は冷え冷えと縮こまっていた。

ほとんど徹夜で用意した書類の詰まったカバンを抱えて

いつもより早く家を出た、長い長い一日。

夕方の約束を考えたらスキップしたい気分になって

ひたすら愉快でしあわせだった。

本当の今日は、これから始まるのだと思った。


そこには何の根拠もなく、ただ「予感」だけがあった。

それまで何度となく開いてきた玄関のドアをくぐったら

少し違った場所に、通じているような。

すべての始まりに不安はまったく感じずに

いつしか私はその日が来るのをとても楽しみにしていて

いいことが起こる予感を疑わなくなっていった。


息を切らして階段を登りきったところで

大きな犬が首をかしげて座っていて

黒く潤んだ瞳でじっとこちらを見ていた。


普段はどこかに追いやられている記憶にも

たまには真剣になって向き合いだすと

どうしてそれほど憶えているのかというほど

細かいことまで掘り返されてきて笑える。

偶然そこにあった景色の一齣でしかないはずなのに

ときめきすら憶えていると言いたげに鼓動まで高鳴りだす。


しばらくするとその人は向こうの方からやってきたのだ。