世界で一番おいしいカレー
お店で食べるごちそうよりも、母の手料理が好きでした。
ご飯と味噌汁、おかずと小鉢。
夕餉の準備がととのったら台所から居間へ運び、
「いただきます」の挨拶をして、みんな揃って食卓を囲みます。
今日学校で先生がね…、ひまわりの芽が出てね…、
おいしいなぁ、おいしいねぇ、ありがとう。
それらはいつも飾り気なく、つましく繰り返される日常でした。
とっておきの好物から、嫌いなおかずまで。何が並んでいても
(きゅうりとわかめの酢の物は苦手でしたが)
残さず食べて「ごちそうさま」と手を合わせ、
食器を洗い、片付けるまでが、私にとって「食べること」でした。
どのシーンを切り取ってみても、特別ではありません。
ただ、目には見えない豊かさと、味覚だけでは味わえないおいしさがあって
何一つ疑いなく、毎日が幸福だと思っていたころがありました。
5月某日
<世界で一番おいしいカレーについて>
この間、ついに「噂のカレー」をごちそうになりました。
そのことをどうにか記録しておきたいのですが
どういうわけか、何日か経った今でも上手くいかず
何度も書いたり消したりを繰り返しているところです。
まあいいか…
日記なんて気ままに綴るもので、人に読まれるわけでもなし。
とにかく、書いてみます。
あの日、私は一日中浮かされていました。
「遠足の前の日」から続く興奮がちっとも冷めずに
待ち合わせから別れ際まで、下がりっぱなしだった目と口元を
帰りの電車で、戻すのに苦労したほどです。
初めて訪れる、彼の部屋で
私たちはキッチンに立っていました。
「いつか自慢のカレーを作ってよ」という話が
ふたりで買い物をして、料理するまでに成熟し
目の前のフライパンの中で煮えていました。
レストランの厨房さながらのいい匂いを放っているそれは
誰が見たってカレーに違いないのですが、
その日の雰囲気や、ふたりの気持ちや、楽しい気配も一緒になって
コトコト煮込まれて、キッチンをしあわせで満たしているのでした。
料理をする男性とは縁がなかったことも、今となってはご都合主義な解釈で
「彼とカレーを作るために、これまでがあったのかも…」などと
笑い飛ばすことができそうです。
と、そんな状況に真顔でいられるはずもなく、
右ナナメ上を見上げれば、私の思いを知ってか知らずか
同じように「嬉しいねぇ」と笑う彼がいるのです。
私たちはコンロの前で、料理の仕上がりを気にしつつ
洗い物を片付け、おしゃべりをし、たまに抱きあいキスをしたりして
まだかな、そろそろいいかな?と待っていました。
じわじわ押し寄せてくる幸福感に、ため息ばかりついていました。
ルーを使わないカレーの作り方は、思っていたよりも簡単で
バターとオイルで香味野菜を炒めたら、お肉と、トマトをどっさり入れて
スパイスやココナッツミルクを加えて、適度に煮込むだけ。
だけ、と言ったら失礼だけど
具を入れるタイミングひとつでも、味が違ってくるのでしょうし
行き当たりばったりのようで、最後には帳尻が合ってしまうところも
レシピのない料理の面白さなのです。
開店したばかりのスーパーマーケットに駆け込みました。
材料を品定めして、足りないスパイスをカゴにいれ、
レジに並び、買ったものを袋につめる作業も、
一段違いのエスカレーターに乗ることさえも、
目に映るすべてが、映画のワンシーンさながらに
胸が苦しいぐらい楽しかったこと。いつまでも忘れないようにしよう。
とにかく、何をするにも新鮮で、些細なことが嬉しくて。
それを「当たり前のこと」だと思うなら、罰があたりそうです。
キッチンでアシスタントになった私は
手際の悪さにがっかりされるんじゃないかと、緊張していました。
買ってきたばかりの生姜やタマネギの皮を剥き、
ちまちまとトマトを切ったりしていましたが
彼はちっとも急かさず「いつも通り」待っていてくれ、
まな板が一枚しかないとか、食器が少ないとかいう不便さも
笑えてしまう居心地のよさも「いつも通り」なのでした。
カレーの要である、スパイスの詰まった袋たちについて
どれが、どこで手に入れた何なのかを説明する彼の横顔と
黄色やオレンジの粉末が、小皿に山盛りになっていく様子を
(媚薬の調合ではなかろうね?)と、興味津々に眺めていました。
袋に書かれた文字を「見かけによらずかわいいなぁ」と思ったり
インド風になった部屋の空気にときめいたり
束の間、互いの温度を確かめるように寄りそったりして。
いよいよ、味見をしようというときになって
フライパンに鼻を近づけ、その香りに思わず顔を見合わせました。
「スバラシイね!」「お店のより、いいんじゃない!?」
手をつないで小さな輪をつくり、喜び小躍りする私たちは
馬鹿みたいに無邪気な大人です。
ささやかな乾杯と、「いただきます」をして食べました。
スパイスだらけのカレーは火傷しそうに熱かったけれど
私がこれまで食べた、どんな有名店の一皿よりも
とびきりおいしい、抜群の味がしました。
しあわせな記憶と、どこか懐かしい感情が込み上げてきて
スプーンに乗った一口ごとに涙がでそうになるのです。
もしも、これ以上に素晴らしいカレーがあるとすれば、
彼とキッチンに立ち、もう一度作ってみるしかないでしょう。
世界で一番おいしいカレーは
隣りにいつも彼がいる世界でしか、叶わない味なのです。
どのシーンを切り取ってみても、特別ではありません。
ただ、目には見えない豊かさと、味覚だけでは味わえないおいしさがあって
何一つ疑いなく、今日が幸福だと思えたことに感謝しました。
おいしいなぁ、おいしいねぇ、ありがとう。
「ごちそうさまでした」
