大西ひろしのBlog

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140字に収まらないとき用。

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志村けんさんが主演するはずだった「キネマの神様」。
朝ドラ「エール」での渋い芝居を観る度
あぁけんさんの映画を観てみたかったなぁと想いに耽るのですが……
それはもうどうしようもないこと。
コロナ憎しとしか言いようがないわけです。
 
そんな映画を監督されるのが、日本を代表する山田洋次監督です。
 
山田洋次監督は
小津安二郎「東京物語」を、2013年にリメイクしました。
それが、『東京家族』だったわけですが
 
「東京物語」の象徴でもあったセリフ
「墓に布団も着せられず」
このセリフが作中、一度しか出てこなかった時点で
「東京物語」の全てをリメイクしたわけではなく
ストーリーだけをリメイクしたのだなぁとわかるのです。
 
「東京物語」で
「墓に布団も着せられず」は
次男が二度、使います。
一度目と二度目では、同じセリフなのに
受け手に与える印象が全く違う
そこが「東京物語」の醍醐味でもありましたが
『東京家族』では割愛されています。
 
さて、映画のストーリーは
田舎から東京に遊びに出てきた父と母をおもてなしするのは
正直しんどいなぁという息子や娘たちの描写から始まります。
 
最初のお泊まりの晩の食事に、お肉とお魚両方出そうかどうしようか
という相談を息子たちがしますが
長男は「さしみはいらんやろ」と言います。
 
この一言が
「おもてなしするのは正直しんどい」という気持ちを表現するスタートなのですが
巧いのは
そのしばらくあとに、
父母を泊めるために部屋から放り出された孫の机が1カット映る。
 
この1カットが「正直しんどい」さしみのセリフを強調するものであり
たった1カットでこうもセリフを活かすことができるのか! と感動するところでもあります。
 
この一連の流れは
「東京物語」にも『東京家族』にもありますが
後者のほうは少しその前後に2人が歓迎されている感が強く出すぎていて
やはり前者の見せ方が巧いなぁと舌を巻いてしまうのです。
(紀子の登場を間に挟んでいる点も踏まえ)
 
小津安二郎はとにかく何も説明しない監督です。
演出家の意図であるカメラの動きが
ほとんどないというところがその証拠です。
 
だけど、山田洋次はそうではない。
 
クライマックスで、紀子が、田舎で父と2人きりになるシーンがあります。
帰り際ですね。
 
紀子はそこで、自分のことが卑怯だと告げます。
「東京物語」の紀子、原節子は
戦死した次男のことを忘れてしまいそうだと……
一方、『東京家族』の蒼井優は
ここに来るのが嫌だったんだと……
 
うーん
 
やはり比べるとスケールが全然違うなぁと唸ってしまいますね。
そしてこともあろうに蒼井優は
帰りのフェリーの上で、その際に自分が思わず泣いてしまった理由を
「説明」してしまっているのです。
 
というわけで
『東京家族』は「東京物語」ではない。ということがわかるかと思います。
 
ただ、それはあまりにも「東京物語」が名作すぎるのであって
『東京家族』が駄作というわけではないです。
わたしは山田洋次が嫌いじゃないし、「学校Ⅱ」は泣けたし
「キネマの神様」も観たいと思う。
 
ただ、ひとつだけ言うならば
英語の先生がチャリでコケるというような「山田洋次感」を出すのは
この映画では避けて欲しかったなぁと思うのです。
 
 
 
 
 

 

メンバーも曲も半分ぐらいしかわかんないのに乃木坂ツアーに行ってきました。

SOPHIAとMICHAEL以外でこういうのに参加するのは初めてです。

なので
わたしと同じように初めて参加する人向けに
必要な知識を書いておきましょう。

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新しいポケモンになかなかモンスターボールが当たらない真夏の午後

ライブというのかコンサートというのかわかりませんが
初めて乃木坂46のライブに参加してみました。

大阪城ホールは
JRの大阪城公園という駅で降りたら歩いてすぐです。

ポケモンも探さなきゃならないし
こんなクソ暑い中
グッズに並ぶのは超絶苦しい気がするので開場ギリギリに到着したわけですが

結果的にはそれでよかったのです。

乃木坂のライブでは
持ち物検査と金属探知が設けられているので
開場から開演の間は1時間半ぐらい開いてます。

グッズ売り場も
開場時間ぐらいになると空いていてポケモンを2〜3匹ゲットしている間に売り場に行けます。

生写真が欲しい人はこの限りではありません、すぐ売り切れちゃうみたいです。

大阪城ホールの入口は
メンバーの旗が立ってたり
ここが入り口だ感満載ですのですぐにわかりますが

グッズ売り場はそこではありません。

メイン階段を上らずに
トラックとかがいっぱい並んでる裏側っぽい道を進むと到着します。

で、そこで買うべきグッズは
ペンライトというのかサイリウムというのかわかりませんが光る棒2本と
推しメンのタオル1枚です。

光る棒は2種類あって
普通っぽいのと、エコっぽいの

売り場のお姉さんに違いを聞いたら

“電池が違う”

とのことなので翻訳すると
持つところの模様と光る部分がツルツルで透明かザラザラかということです。

普通のがツルツルです

どうせ2本買うので1本ずつ買いましょう。
タオル合わせて7900円です。

グッズを買うと何やらスクラッチと応募券のような紙をもらえます。

その紙を削ると
ポストカードとかクリアファイルとか文字を書いているので

グッズとは別の
スクラッチを削って
出たものをもらえる列に並びます。

そしてこの列は
貰ったスクラッチと応募券の色に応じて列が変わっているらしく

今回のツアーで最も難関な箇所でありました。

わたしは赤い応募券を貰ったので
赤い応募券を持ってる人が並んでる列に並びました。

時間も時間なので
ポケモンを5匹ほどゲットしている間にお姉さんのところに着きます。

はい、そこでまた難しいのが
応募券をどうするかという点です。

紙をよく見ると
ギザギザの切り取り線でスクラッチと応募券が切り取れるようになっています。

お姉さんに渡すのはスクラッチのほうなので応募券が余りました。

これは
お姉さんがいるよりもう少し奥のテントの中に応募箱があるので
推しメンの箱に入れるんですね。

これは誰も教えてくれないので
注意しておきましょう。

さて、購入した光る棒はライブ中に生駒と真夏に色々指示されるので、それに合わせて色を変えましょう。

ボタン押すたびに色が変わっていきます。

生駒と真夏の指示がない場合は
推しメンの色に設定しておきましょう。
みんな多分西野の推しだと思うので
緑と白にしておきましょう。

例外は

何度目かの青空にという曲のときは両方青
最後の乃木坂の詩では両方紫にすることですかね。

電池は最初にテストでついてる分で充分でしょう。

タオルは暑いので熱中症予防に頭に乗せます。
また、新曲の裸足でSummerの合いの手でなんか前に出したりして使います。

合いの手に関してはみんなの真似してればいいです。

ソロで歌ったりした後に
その人の名前を呼んだりするのがいいっぽいです。

タオルはあと、西野がロープウェイみたいなやつでスタンド席に回ってきたときとかに前に出します。

大阪城ホールはそもそも
1Fのアリーナ席と2Fのスタンド席とに分かれています。

SOPHIAは5人しかいないし
楽器も持ってるので
遠くからでも誰が誰かわかりますが

乃木坂は大体服も一緒だし
遠くからでは誰が誰だかわかりません。

必要に応じて
双眼鏡みたいなものを持って行ったほうがいいかも知れません。

あれ、どこまで話しましたっけ?
野生のコダックを捕まえた辺りでしたかね。

応募箱に応募券を入れた後ですね。

グッズのために裏側に来たので
メイン階段を上って入口感満載のところに行きます。

その途中で
生写真いらんかね
と、声をかけてくる男性がおりますが仕様です。
わたしは写真に興味がないので丁重にお断りしておきました。

わたしが写真に興味がない話をすると長くなりますが
わたしは普段映像を生業にしているのにも関わらず
スチールと呼ばれる写真撮影については疎く

そんな話はどうでもいいですね。

入り口感満載のところに着きましたか?

この時点で既に開場時間を1時間ぐらいすぎてるので列はガラ空きです。

握手会のときより厳しくない持ち物検査を受けてエアコンの効いた会場内に入って行きましょう。

そこからはもう
会場の雰囲気に合わせて楽しめばいいわけですが

一見さんお断り的な感じは全くしないので
適度にペンライト振ってコール言ってれば
楽しく過ごせること請け合いです。

さて、最後に
ライブ終了後は
そのままJRに向かわずに
さっき応募箱に入れた抽選結果をまた同じところで確認しなければなりません。

確率的に当たっているわけはないのですが
一応、念のため確認しておきましょう。


─ネタバレ注意─




以下、ネタバレ注意です。

実写の公開もありますので
観てない人はお帰りください。


帰りましたか?

最後のチャンスです。


観てない人はお帰りください。

↓↓↓↓

↓↓↓↓

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踏切の向こう側に消えたかをり。

これはもう断絶の意味でしかない。
入れ替わりに椿がやってきて、一緒に生きようと公生に言う。

「死」と断絶することが
「生きること」だと言っている。

公生はずっと死者に囚われていた。

死しても尚、亡霊として在り続ける母親が
公生から音を奪い、成長を奪い、後悔を募らせる。

成長の枷である「母親の死」を
どう乗り越えてゆくのかということが、この物語のテーマだった。

そのテーマを語るために
物語は「嘘」という小道具を使う。

椿はソフト部のエースで
渡はサッカー部の部長である。

中学生のスクールカースト的に言うと
上位も上位
音楽やってる地味子には到底及ばない立ち位置である。

幸せな「嘘」を使うことで
地味子はその位置にまで自ら引き上がったのである。

ではその嘘は本当に幸せだったのか。
その嘘のせいで公生との恋が進展しなかったのではないのだろうか。

そうだとすれば幸せな嘘どころか
不幸な嘘ではなかったのだろうか。

否。

渡とは違い、友人を好きな女の子に好きだなんて到底言えない公生を
かをりは充分に承知している。
それが、意図された状況でもあった。

過ぎ去って行く存在が
生きる者の「好き」を奪ってはいけない。

公生からの「好き」はかをりにとってタブーだったのだ。

その作戦は結果的に成功する。
その上で、一方通行の好きを与えることで、

君の中に私の存在があるよ、ちゃんと生きてね

というある種自己犠牲的なメッセージが込められるのである。

「生」と「死」を意図的に断絶することによって
成長の枷を振り払う。

これがこの物語の本質で、最後の演奏の「さよなら」の意味なのであり
君のいない春なのである。

これは少年マガジンの連載であり
主人公はあくまで少年である公生である。
公生の成長過程をストイックに描き続けてきたのが『四月は君の嘘』だったのだ。

もう死んだんだ、受け入れなきゃ
というのは「あの花」にも通ずる普遍的なメッセージでもある。
「死」とともに「生きること」は不可能なのだ。

断絶によって「死」を遠ざけること。
それが唯一の成長手段なのだ。

否。違う。

自分のために生きようと決意したかをりは
渡の「好き」を奪い、椿の「好き」を気付かせ

公生の「好き」を手に入れた。

生命以外の全てを手に入れて
かをりは春の中で輝いていた。

だが、
雪の中で泣き崩れても、彼女は美しく生きていた。

春が連れてきた幻想などではなく
かをりは懸命に生きるただの「人」だった。

ただの人は
「生」と「死」という永遠にも思える断絶を必ず経験する。

遮断機は上がらず
黒猫は姿を消す。

でも

断絶は不幸ではない。

「生」と「死」で隔てられても
存在がなくなるということではない。

「断絶」や「さよなら」や「いなくなる」ことは
共に生きていかないこととは違う。

かをりがついた本当の嘘は
いらなかったら捨ててね、と宝物を同封したことだ。

捨てないで、一緒に生きて

これがかをりの正直な気持ちだっし、公生はそれに応えた。

椿の想いに複雑な表情を見せたのは
かをりとともに生きることを選んでいたからだ。

ラストシーン
ピアノの上の写真立てが全てを物語っている。

椿ではなく
公生は、かをりの「好き」を選んで物語は幕を閉じる。

「死」は成長の枷なんかじゃなかった

「死」は、「生」とともにあるもの、だった。

公生に振り向いてもらうために
椿は色々な努力をするかも知れない。

宮園かをりは
スクールカースト上位の女の子を天国から見つめ
まぁがんばれよって笑うのだ。

カヌレを頬張り、自由奔放にバイオリンを奏でながら。
─ネタバレ注意─




「大人が子どもに綺麗事言わないでどーすんだ!」

そんな台詞を言った暁は

最後の授業で綺麗事を言わなかった

担任に突き放された生徒たちは
それでも先生を信じた

それがこの物語の象徴である

作中
しばしば突き放されるアカネの存在

あっちゃんは京塚りさを抱きしめて
「死んだら終わりなんだよ」
と告げる
死者であるアカネの前で

死者であるアカネ自身も
死んだら終わりです。生きてるものが成長する資格を持つんだ

というようなことを言います

しかし
死んだように生きていた暁も

過去に苦しめられていた副校長も

死者によって生き返らされている

「死んだら終わりなんだよ」と語りながら

死んでも終わりじゃないことを語っている

ドラマとは
成長と葛藤

暁やあっちゃんや副校長や生徒たちや遊具大好き校長が成長したように

死者であるアカネも成長した

合唱という夢を叶え
幸せという夢を叶えた

死した者が生きている者に影響を与えるのと同じように
生きている者は死した者に影響を与える

生きている人も
死んでしまった人も

同じように今を生きてゆくことができる

そんなメッセージを
綺麗事じゃなく伝えてくれた、そんな風に考えてしまうのです
―ネタバレ注意―




これは
「修復」の物語でも「救済」の物語でも「過去をやり直す」ための物語でもなく

「受け入れる」ための物語だった

皮肉にも
死を受け入れていたのはめんま本人だけであって

バスターズにしろ母親にしろ
「死」に束縛され
悔やみ
嘆き
癒えない傷を抱き続けていた

めんまは
ただ無自覚に
死を受け入れてほしいと
それが本当の願いだった

めんまは最初
自分を「忘れてもらう」あるいは「思い出さない」ことが死を受け入れてもらうことだと思っていた
一方
バスターズは
「成仏させる」「送り出す」ことがめんまにとっての幸せだと考えていた

それらはどちらも作中に否定され

物語は衝撃のラストシーンへと進む

めんまは
またみんなと会いたい
会って喋りたいからと優しい嘘をつく

自分のためだと口にしながら
みんなのことしか考えていない

これは
めんまが選んだ永遠の孤独で
そうまでしても達成しなければならないほどの願いだった

アンコ入りの自分の顔を食わせるどころの話じゃない
究極の反自己愛であり他人愛

しかし
そんなめんまが唯一
たった一箇所だけ
自分のことを考えた場面がある

それは
「じんたんへの手紙」そのもので

これが
めんまという女の子の全てだった

なぜ
じんたんだけにめんまが見えたのか

それは
めんま本人が「見せたかった」「見て欲しかった」からで

「死」は必ず受け入れなきゃならない前提で
だけど
それでも…
どうしようもない想いがただそこにはあって
というこの物語は

めんまによるめんまのための
ちょっぴり切ないラブストーリーだった…のかも知れない