感動するのに、多すぎる知識は要らない。
適度に知っていて
適度に忘れて
適度に知らないのがちょうどいい。
うんちく垂れ流し野郎(やだっあたしったら!)の話が、超絶つまらなくて聞き手の心が動かないのは、そこに野郎の心の機微がないからだ。
そんな話はGoogle大先生に語ってもらえばいい。
唯一無二のわたしというの肉体を通して、
何を感じたのか。
聞き手はそんな話し手の感動を通じて
自分も心を動かしたいのだ。
本当はそれにしか興味がない。
自分が大して感動していないことで
相手にすごい!そうなんですか!って言われて感動されて認めてほしいなんて、
ハラスメントのなにもでもないじゃないか。
そんな下心丸出しの話に誰が心動かすってんだい。
そんなに相手に感動してほしいのなら、
まずは自分が日々をもっと感動でいっぱいで生きるってのが筋ってもんじゃないのかい。
感動って
深く強く感じて、心を動かすこと。
そこに知識という思考が入ったら
深く感じられるだろうか。
強く感じられるだろうか。
知っている・分かっているという視点から
深くて強い感動はあるのだろうか。
知識と感動は反比例するところがある。
純粋に感動したいなら、
できるだけ知識を入れるのをほどほどにするのだ。
それと同じくらい忘れることも大切だ。
忘れるから、いつも新鮮な感覚で感動し、学ぼうとする意欲が湧いてくる。
忘れるから、いつも新鮮な感覚で感動し、興味が尽きない。
つまり、学ぶことや知ることそれ自体が感動になるのだ。
そうやって知ったことを話すから、相手も感動するのだ。
そしてまた忘れて
新鮮な感覚で目の前のことに感動し
せっせと学んで感動し、
興味を深めて感動し、
生きるエネルギーがどんどん増えていくんだ。
そんなこと言ったって〜なんて思うのなら、
忘れてヤバいことはどこかにメモしておこう
そうして
さっさと寝よう
さっさと忘れよう
忘れた先に
明日という
感動する日々が待っている。
(なんとなく選んだ牡蠣グラタンが夢のような美味しさでめっちゃ嬉しい。この味も、寝たら忘れて、また食べに行って感動してるんだろうな)
人生はオモロ〜!
