多様性は、
絶対視の概念から自由な社会を創るために
個人が自由になるツール。
その自由になるためのツールで、
〜な傾向がある、〜が多い気がするを
偏りの指摘
(そうでないパターンもあるということを含む)ではなく、
絶対視だとみなし、
多様性社会下で決めつけて考えるのはよくないと裁くのは本末転倒だ。
それって本人の内側に多様性がないということなんじゃないかな。
これは良い。これはダメ・悪い。
これは正しい。これは間違っている。
そうやって考えだけでなく
感情までも裁いている。
ポジティブはいい。
ネガティブはダメ。
嬉しい・楽しいという感情はいい。
ムカつく・嫌いという感情はダメ。
その全てがわたしなのに。
わたしがわたしによって裁かれる。
そうして、内側の多様性はなくなっていくんだ。
それが外側の世界に反映されると、
わたしの気持ちにうやむやの魔法をかける。
あの人、いい人なんだけどね
あの人、悪い人じゃないんだけどね
無理やりポジティブな方向に思考をもっていこうとして、
わたしが感じていることなのになんだかよくわからなくなる。
好きなのか嫌いなのかわからなくて、
わからないからモヤモヤして、
結局ずっと嫌いなまま。
そうして消化されないところに意識が向き続けると、
その対象が増幅し、
人間関係で同じようなモヤモヤすることが
繰り返し何度も起こる。
感情は毎瞬変化しているから、
(よくよく観察してると、ずっと嬉しいとかずっと悲しいとかなくて波があるでしょ?)
あの人嫌いって認めてしまえば、
その対極にある、あの人のここは好き・いい!がひょっこり出てくる。
そうやってわたしが気づけば、
嫌いだって感情は昇華されてしまうんだ。
なんというパラドクス!
人間関係でわたしの内側にどんな感情が湧こうが、
最終的にわたしの外側にある人間関係は平穏になる。
それは、
野に色々な花が咲くように
色々な花がただそこに存在する、
自然の在り方そのものだ。
これこそが多様性。
だから、
わたしの内なる世界の多様性や調和が
わたしの外の世界の多様性や調和なのである。
野に咲く花のようにただそこに存在して
そんな風に僕たちも生きてゆけたらめちゃ楽しい
時には嫌いと思っても
ただ気づけば 春うらら
そんな時こそ野の花のけなげな多様性を知るのです
人生はオモロ〜!
