国王エリックの執務室には、国王、宰相、王妃アリア、そして王女ミレアとルシアンが集まっていた。
議題は、先日ルシアンを通じて伝えられた、レグナード公爵アルヴィンからの要望についてだった。
エリックは椅子に深く腰掛け、ルシアンへ視線を向ける。
「それで、レグナード公爵の希望とは何だ?」
「はい。陛下が、できる限り本人の希望を聞き入れるとおっしゃった件について、改めてご本人の意向を確認してまいりました」
ルシアンは一度言葉を切り、静かに告げた。
「レグナード公爵は、ミレア王女殿下との婚約を破棄したいと望んでおられます。ただし、現在の爵位と領地については、そのまま維持することを希望されています」
一瞬、室内の空気が止まった。
「……え?」
最初に声を漏らしたのはミレアだった。
聞き間違いだと思いたかった。
けれど、ルシアンの表情は真剣そのものだった。
アルヴィンが、自分との婚約を破棄したい。
その事実が、ゆっくりとミレアの胸に突き刺さっていく。
「そ、そんな……」
顔から血の気が引いた。
視界が揺れる。
立っていることさえ難しくなり、ミレアの身体がぐらりと傾いた。
「ミレア様!」
近くに控えていた侍女が、慌てて身体を支える。
「誰か! すぐに宮廷医を呼べ!」
別の侍女が叫び、数人がかりでミレアを抱きかかえると、急いで部屋から運び出していった。
残された者たちは、しばらく言葉を失っていた。
アリアも思わず額に手を当てた。
立ちくらみがするほどの衝撃だった。
まさか、アルヴィンの方から婚約破棄を望んでくるとは。
ミレアが彼に寄せている想いを知っているアリアにとって、この知らせはあまりにも重かった。
娘の気持ちを思えば、胸が痛む。
だが、王妃として考えなければならないこともある。
一方、宰相は怒りを隠そうともしていなかった。
「……無礼にも程がありますな」
低く抑えた声に、明確な怒りが滲んでいる。
「まだ十二歳の公爵が、ノルディア王家からの婚約を一方的に破棄したいと申し出るとは。いくら国王陛下が希望を聞き入れるとおっしゃったとはいえ、あまりにも身勝手ではありませんか」
しかし、エリックはそれほど怒ってはいなかった。
正直なところ、拍子抜けしていたのである。
「なんだ、そんなことか」
エリックは軽く息を吐いた。
もちろん、ベルク王国とのつながりを維持することには意味がある。
だが、今のアルヴィンに、そこまでして婚約を維持しなければならないほどの価値があるかと問われれば、判断は難しかった。
それに、爵位と領地を維持したいというのであれば、本人の希望どおり婚約だけを解消することもできる。
「よかろう。レグナード公爵の希望を認め――」
そのときだった。
バタンッ!
勢いよく扉が開いた。
「国王陛下! その発言をお止めください!」
そこに立っていたのは、先ほど運び出されたはずのミレアだった。
侍女たちの制止を振り切って戻ってきたのだろう。
顔色はまだ悪く、足取りも頼りない。
それでも、その瞳だけは強い意志を宿していた。
「ミレア! 国王の発言を遮るとは何事だ!」
エリックが声を荒らげる。
「いくらお前でも、許されることと許されないことがあるぞ!」
「承知しております。しかし……」
ミレアは一度息を整え、国王をまっすぐに見つめた。
「陛下は、レグナード公爵との婚約破棄をお認めになるのですか?」
「そうだ。本人が望んでいるのなら、無理に婚約を続ける必要もあるまい」
その言葉を聞いた瞬間、ミレアの表情が変わった。
「……それだけは、おやめください」
「何?」
「もし、陛下が婚約破棄を認められるのであれば……私は、この場で舌を噛んで死にます」
「なっ……!」
「何を言っているの、ミレア!」
アリアが立ち上がった。
エリックも、さすがに表情を険しくする。
「ふざけるな! 甘えていいことと、悪いことがある! 婚約を破棄されたから死ぬだと? 王族であるお前が、そのようなことを口にするな!」
「私は本気です!」
ミレアの声が、室内に響き渡った。
「私はこれまで、王家のため、そして国のために、王族としての責務を果たしてまいりました!」
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「自分の望まないことでも、必要であれば受け入れてきました。先日決められた、侯爵家の三男との婚約もそうです!」
宰相が眉をひそめる。
ミレアは、震える拳を握り締めた。
「それでも、私は耐えられました。アルヴィン様との婚約があったからです」
その名を口にした瞬間、声がかすれた。
「いつかアルヴィン様の隣に立ち、共に歩んでいける。そう信じていたからこそ、私はこれまで頑張ってこられたのです」
ミレアは、エリックを見つめた。
「それを失うくらいなら……私は、生きている意味を見いだせません」
「ミレア……」
アリアは、娘の名を呼ぶことしかできなかった。
普段のミレアは、決して感情をむき出しにする娘ではない。
王族としての立場を理解し、どれほど望まないことであっても、必要とあらば受け入れてきた。
その娘が、ここまで取り乱している。
どれほどアルヴィンを想っているのか。
それを、改めて突きつけられた気がした。
「……分かった」
エリックは深く息を吐いた。
「この場で結論を出すのは早い。場所を移そう。ミレア、お前も落ち着いて話せ」
「……はい」
ミレアは小さく頷いた。
こうして一同は、別室へと移ることになった。
◇
移動先の応接室。
侍女がミレアに水を差し出し、彼女が一口飲んだところで、エリックが口を開いた。
「ミレア。先ほどの話だが……お前は、侯爵家の三男との婚約をすんなり受け入れただろう?」
「はい」
ミレアは静かに答えた。
「王族としての責務だと考え、受け入れました」
「ならば、なぜレグナード公爵との婚約だけは、そこまで拒む?」
エリックには理解できなかった。
王族に生まれた以上、個人の感情よりも国の利益を優先しなければならない場面がある。
ミレアも、それを理解しているはずだった。
だからこそ、三男との婚約を受け入れたのだろう。
それなのに、アルヴィンとの婚約だけは、なぜこれほどまでに執着するのか。
ミレアは、しばらく口を閉ざしていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……私は、侯爵家の三男との間に子をもうけることに、希望を持てません」
「ミレア!」
アリアが思わず声を上げた。
しかし、ミレアは止まらなかった。
「その方との婚姻が王家のために必要なら、私は妻としての役割を果たします。ですが……心まで、その方に捧げることはできません」
ミレアの頬を、一筋の涙が伝った。
「私には、アルヴィン様との未来がありました」
「……」
「いつかアルヴィン様と結ばれ、あの方の子を授かり、家族として生きていく。その未来を信じていたからこそ、私はつらいことにも耐えられたのです」
声が震える。
それでも、ミレアは言葉を続けた。
「もし、その未来まで失われてしまうのなら……私は、これから何を希望に生きていけばよいのでしょうか」
誰も、すぐには答えられなかった。
やがて、アリアがそっと問いかける。
「あなた……まだ、レグナード公爵のことが好きなの?」
「はい」
ミレアは、迷うことなく答えた。
「私は、アルヴィン様と一生を添い遂げるつもりでおります」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
「たとえ今、アルヴィン様が私を望んでいなくても……私の気持ちは変わりません」
アリアは目を伏せた。
娘の想いが本物であることは、以前から知っていた。
しかし、これほど深く、そして強いものだったとは。
「……そう」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
エリックも黙り込んでいた。
自分は、アルヴィンからの申し出を、ただの婚約解消として受け止めていた。
だが、ミレアにとっては違う。
それは、これまで自分を支えてきた未来そのものを失うことだったのだ。
しばらく沈黙が続いた後、宰相が慎重に口を開いた。
「陛下。複雑な事情ではありますが、婚約破棄は認めるべきではないと考えます」
「理由を聞こう」
「そもそも、レグナード公爵は、ベルク王国での婚約を経てノルディアへ移り、現在の地位を得たという経緯があります」
宰相は、言葉を選びながら続けた。
「ここで婚約を解消すれば、両国間の関係にも影響を及ぼしかねません。少なくとも、こちらから安易に破棄を認めるべきではないでしょう」
「……なるほどな」
エリックは腕を組んだ。
確かに、婚約の解消はミレア一人の問題ではない。
王家同士の関係にも関わる。
だが、アリアは別の問題を指摘した。
「しかし、レグナード公爵は、ノルディア王家に対して相当な不満を抱いているようです」
「……あの一件か」
エリックの表情が曇る。
ミレアに別の婚約者を定めたこと。
そして、その婚約を進めるにあたり、王家が自らの派閥を優先したこと。
アルヴィンが今回、婚約破棄を望んだのは、それらへの反発もあるのだろう。
もちろん、それだけが理由とは限らない。
だが、王家への不信感が影響している可能性は高かった。
「婚約を無理に維持したところで、レグナード公爵の心がこちらから離れてしまえば、かえって関係を悪化させることになります」
アリアの言葉に、宰相も口を閉ざした。
婚約を維持すれば、ミレアの望みは叶うかもしれない。
しかし、アルヴィンがそれを拒み続ければ、両者の関係はさらに悪化する。
かといって、婚約を解消すれば、ミレアの心は壊れかねない。
どちらを選んでも、簡単には済まない問題だった。
沈黙が、応接室を満たした。
やがて、アリアがぽつりと口を開いた。
「……私が、レグナード公爵のもとへ参ります」
「何を言い出すのだ、アリア!」
エリックが目を見開いた。
宰相も、驚きを隠せない。
「王妃様、それはいくらなんでも……」
「いいえ。今は、これ以上事態を悪化させないために、動かなければなりません」
アリアは、二人を見据えた。
「レグナード公爵は、王家に対して不信感を抱いている。その状態で、こちらの都合だけを押しつけても、受け入れてもらえるはずがありません」
「だからといって、お前が直接出向く必要はないだろう」
「あります」
アリアは、はっきりと言い切った。
「私がレグナード公爵のもとに身を置けば、王家が彼を信頼しているという意思表示になります。同時に、私自身が王家の人間として、彼のもとで過ごすことになる」
エリックの顔が険しくなる。
「それでは、お前自身が人質になるようなものではないか」
「そうです」
アリアは、あっさりと認めた。
「ですが、今はそれくらいの覚悟を示さなければ、レグナード公爵の信頼を取り戻すことは難しいでしょう」
「アリア……」
「これ以上、王家の派閥争いを続けている場合ではありません」
アリアの声に、わずかな厳しさが宿った。
「西側の貴族たちの間でも、対立が深まっています。このまま身内の争いにかまけていれば、国全体が不安定になりかねません」
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「ミレアの気持ちも、レグナード公爵の不満も、どちらも無視することはできません。ならば、まずは私が直接会い、話を聞くべきです」
エリックは、すぐには答えなかった。
妻の決意が固いことは、長年連れ添った彼には分かっていた。
そして、今回ばかりは、王家の都合だけで押し通せる問題ではないことも。
「……本当に、行くつもりなのだな?」
「はい」
アリアは静かに頷いた。
「私が行きます。レグナード公爵と、きちんと話をしてまいります」
その言葉を最後に、再び沈黙が訪れた。
ミレアは、膝の上で両手を強く握り締めていた。
母がアルヴィンのもとへ向かう。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
アルヴィンとの未来を失いたくない。
その想いだけは、誰に何を言われようとも変わらなかった。