ノルディアへ向かうにあたって、俺は大きな決断をした。
リリア母様と別れることだ。
本当は、一緒についてきてほしかった。
これから先、何が起こるか分からない。
知らない土地で、頼れる人も少ない生活が始まるのだ。
そんなとき、リリア母様がそばにいてくれたら、どれほど心強いだろう。
けれど、王家はそれを許さなかった。
俺も、最終的にはそのほうがいいのだと思っていた。
俺が与えられた領地は、ノルディアとの国境近くにある土地だった。
そこには、国境を越える商人や旅人が宿泊するための宿がいくつかある、小さな町があった。
一見すれば、静かな土地なのかもしれない。
しかし、国境に近いということは、それだけ危険も多いということだ。
モンスターの脅威もあれば、旅人や商人を狙う盗賊もいる。
治安を整え、領地を発展させていくには、それなりの時間と労力が必要になるだろう。
そんな場所に、リリア母様を連れていくわけにはいかなかった。
何より、俺のせいで母様まで危険な目に遭わせたくなかった。
だから、別れるしかなかった。
それでも、リリア母様は諦めなかった。
「アルと一緒に行かせてください!」
何度も王家の人間に掛け合い、どうにか同行できないかと必死に訴えた。
俺も、その姿を見るたびに胸が苦しくなった。
「母様……」
「お願いです。あの子は、まだ幼いのです。これから知らない土地へ行くというのに、どうして私まで引き離されなければならないのですか?」
その言葉には、母様の悲痛な思いが込められていた。
けれど、誰も耳を貸してはくれなかった。
王家の決定は覆らない。
どれだけ訴えても、結果は変わらなかった。
母様は最後まで諦めようとしなかったが、やがて自分の願いが届かないことを理解した。
俺にできることも、もう残されていなかった。
だからこそ、せめて残された時間だけは、母様と一緒に過ごそうと思った。
久しぶりに、母様と一緒に眠った。
幼い頃のように隣に横になり、他愛のない話をした。
昔の思い出話をしたり、ノルディアに行ったら何をしようかと話したり。
母様は、俺を心配させないように、できるだけ明るく振る舞っていた。
けれど、ときどき会話が途切れる。
そのたびに、俺たちは同じことを考えていたのだと思う。
もうすぐ、離れ離れになる。
「アル……向こうで、ちゃんとご飯を食べるのよ?」
「うん」
「体調が悪くなったら、我慢しないですぐに休むのよ?」
「分かってるよ、母様」
「それから、寂しくなったら……」
そこまで言って、母様は言葉を止めた。
「……ごめんなさい。こんなことばかり言って」
母様は笑おうとしていた。
でも、その表情は今にも泣き出しそうだった。
「母様」
俺は、そっと母様の手を握った。
「俺、大丈夫だから」
「……うん」
「ちゃんと頑張るよ。だから、そんな顔しないで」
本当は、俺だって寂しかった。
この世界に生まれてから、ずっとそばにいてくれた人だ。
母様がいたから、王宮での生活にも耐えられた。
母様がいたから、何度も前を向くことができた。
それなのに、これからは一緒にいられない。
まだ子供の俺には、あまりにも大きな別れだった。
それでも、母様を困らせたくなかった。
だから俺は、笑った。
母様も、笑ってくれた。
けれど、その夜はいつまでも眠れなかった。
せめて今だけは。
もう少しだけ、この温もりを感じていたかった。
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そして、もう一人。
エレナとも別れることになった。
「私も、アルヴィン様についていきます」
そう言ったエレナに、俺は首を横に振った。
「……ごめん。エレナは連れていけない」
「どうしてですか?」
即座に返ってきた言葉には、戸惑いと焦りが混じっていた。
「私は、アルヴィン様の侍女です。どこへ行かれようと、おそばでお仕えするつもりです」
「分かってる」
「でしたら……!」
「エレナ」
俺は、彼女の言葉を遮った。
「母様のそばにいてほしいんだ」
その瞬間、エレナの表情が変わった。
まるで、目の前が真っ暗になったかのような顔だった。
俺が一緒に来てほしくないと言ったこと。
それが、彼女にとってどれほどつらいことなのか、痛いほど伝わってきた。
「……私では、ついていくことは許されないのでしょうか」
「そうじゃない」
俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「本当は、エレナにもついてきてほしい。これから先、俺がどんな目に遭うか分からないし、知っている人がそばにいてくれたら心強いから」
「でしたら……!」
「でも、母様にはエレナが必要なんだ」
エレナは、唇を噛んだ。
「母様は、俺がいなくなったら一人になってしまう」
もちろん、母様の周りには侍女もいる。
それでも、俺がいなくなることで、母様の心に大きな穴が空くことは間違いなかった。
王家の決定に逆らうこともできず、息子と離れ離れになる。
そんな母様を、俺は一人にしたくなかった。
「エレナは、俺が一番信頼している人の一人だ。だからこそ、お願いしたいんだ」
「……」
「俺の代わりに、母様を支えてほしい」
エレナの目に、涙が浮かんだ。
「そんなお願い……ずるいです」
「うん。ごめん」
「アルヴィン様は、いつもそうです……」
涙が頬を伝う。
「私が、どれだけおそばにいたいと思っているか……ご存じでしょう?」
「……うん」
「それなのに、どうして……」
最後まで言葉にできず、エレナは顔を伏せた。
俺だって、こんなことを頼みたくはなかった。
一緒に来てほしい。
これからも、そばにいてほしい。
そう言ってしまえば、どれほど楽だっただろう。
けれど、それでは母様が一人になってしまう。
俺には、エレナにしか頼めないことがあった。
「お願いだ、エレナ」
俺は、もう一度頭を下げた。
「母様を守ってほしい。俺がいない間、母様のことを頼む」
長い沈黙のあと。
エレナは、涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……分かりました」
その声は震えていた。
「アルヴィン様のお願いですから……お受けします」
「ありがとう」
「ですが……」
エレナは、涙で濡れた目で俺を見つめた。
「どうか、ご無事でいてください」
「うん。約束する」
本当は、そんな約束ができるほど、これからの未来が分かっているわけではない。
それでも、俺はそう答えるしかなかった。
エレナは最後にもう一度、深く頭を下げた。
その肩は、小さく震えていた。
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ベアトリスたち、武術侍女とも別れることになった。
彼女たちは、俺のために雇われていた人たちだ。
しかし、雇用主は俺ではない。
王家だった。
俺がノルディアへ移るからといって、彼女たちまで一緒に連れていけるわけではなかった。
それどころか、ベアトリスたちは実家からも厳しいことを言われていたらしい。
俺についていくのなら、勘当する。
そこまで言われている者もいた。
「……そうか」
話を聞いた俺は、思わず言葉を失った。
彼女たちは、俺のために剣を振るい、厳しい訓練に付き合ってくれた。
ときには、俺の無茶な要求にも応えてくれた。
一緒に過ごした時間は、決して短くない。
それなのに、俺が王命によってノルディアへ行くことになっただけで、こんなにも簡単に別れなければならないのか。
やりきれなかった。
俺がもっと強い立場にいれば。
俺に、誰にも文句を言わせないだけの権力があれば。
彼女たちを連れていくことだって、できたのかもしれない。
けれど、今の俺には何もできなかった。
悔しかった。
自分の無力さが、何よりも腹立たしかった。
別れの日。
俺は、集まってくれた武術侍女たちの前に立った。
ベアトリスも、その中にいた。
「みんな、今まで本当にありがとう」
そう言うと、何人かが顔を伏せた。
「皆さんと過ごした時間は、とても楽しかったです。剣の訓練も、何気ない会話も……俺にとって、大切な思い出です」
言葉にしてみると、改めて別れを実感した。
もう、みんなと一緒に訓練することはない。
くだらない話で笑い合うことも、厳しい指導を受けることもない。
そう思うと、胸の奥が締めつけられた。
「今まで、本当にありがとう」
俺は、深く頭を下げた。
「アルヴィン様……」
誰かが、小さく声を漏らした。
「どうして、こんなことに……」
別の侍女が、悔しそうに呟いた。
「殿下が何か悪いことをなさったわけでもないのに……」
「王家の決定だからって、何もかも一方的すぎます」
不満を口にする声が、ぽつぽつと聞こえてきた。
俺は、思わず顔を上げた。
王家に対して不満を抱いてくれる人がいる。
俺のために、悔しいと思ってくれる人がいる。
それが、少しだけ嬉しかった。
もちろん、彼女たちに不利益が及ぶようなことは望んでいない。
だからこそ、俺は静かに告げた。
「みんなの気持ちは嬉しいよ。でも、無理はしないでほしい」
彼女たちは、何も言わずに俺を見つめていた。
「それと……最後に、一つだけお願いがあるんだ」
俺は、リリア母様のほうへ視線を向けた。
「できることなら、母様のそばにいてあげてほしい」
武術侍女たちの表情が変わった。
「俺がいなくなったあと、母様は寂しい思いをすると思う。だから、皆には母様を支えてほしいんだ」
それは、俺が彼女たちにできる最後のお願いだった。
「……分かりました、殿下」
ベアトリスが、一歩前に出た。
「リリア様のことは、私たちにお任せください」
その言葉に、他の侍女たちも頷いた。
「必ず、お守りします」
「殿下が安心して旅立てるよう、リリア様をお支えします」
俺は、もう一度頭を下げた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
これで、決まった。
俺についてきてくれる人は、一人もいない。
リリア母様も、エレナも、ベアトリスたちも。
みんな、この場所に残る。
これから先、俺は一人でノルディアへ向かうのだ。
もちろん、向こうへ行けば、新しい人々との出会いもあるだろう。
領地を治めるために、仲間を集める必要もある。
いつまでも、別れを悲しんでいるわけにはいかない。
頭では分かっていた。
それでも。
やっぱり、寂しかった。
こんな別れ方をしたくはなかった。
みんなと、もっと一緒にいたかった。
リリア母様と、これからも暮らしていたかった。
エレナには、そばで支えてほしかった。
ベアトリスたちとも、いつか笑いながら訓練を続けたかった。
それなのに、俺の意思とは関係なく、すべてが引き離されていく。
王命だから。
貴族の都合だから。
そう言われれば、俺には何もできない。
「……くそっ」
誰にも聞こえないほど小さく、俺は呟いた。
悔しかった。
悲しかった。
そして、腹が立った。
この世界では、子供である俺の気持ちなど、何の意味も持たないのだろうか。
俺の人生なのに。
俺の大切な人たちなのに。
どうして、自分の望む未来を、自分で選ぶことすらできないのだろう。
拳を握りしめる。
今は、何もできない。
けれど、いつか。
いつか、自分の大切な人たちを、自分の意思で守れるようになりたい。
誰かの都合で、大切な人と引き離されることのないように。
そんな未来を、自分の手でつかみ取りたい。
そう思いながら、俺は別れの時間を終えた。
そして、ノルディアへ向かう日が近づいていた。