遂に、その日がやってきた。
アルヴィンのダンスレッスン初日である。
案内されたのは、城内にある広々としたホールだった。
磨き上げられた床に、大きな窓。武術の鍛錬場とは違い、どこか優雅な雰囲気が漂っている。
ホールの中央には、二人の女性が立っていた。
一人は、上品なドレスに
身を包んだ年配の女性。
白髪の混じった髪をきれいにまとめ、背筋を伸ばして立つ姿には、長年にわたって貴族の子女を指導してきた者らしい風格があった。
もう一人は、アルヴィンより少し年上に見える少女だった。
「アルヴィン殿下、お待ちしておりました」
年配の女性が優雅に一礼する。
「私はアデライードと申します。本日より、殿下に社交ダンスの基礎からお教えいたします」
「よろしくお願いします」
アルヴィンも礼儀正しく挨拶を返した。
続いて、隣の少女が一歩前に出る。
「は、初めまして。私はリゼット・ミュラーと申します。殿下より二つ年上です。本日は、練習のお相手を務めさせていただきます」
「アルヴィン・ベルクです。こちらこそ、よろしくお願いします」
アルヴィンは穏やかな笑顔で答えた。
その姿を見て、リゼットは思わず背筋を伸ばした。
今日の自分は、ただのダンスの練習相手ではない。
相手は、この国の第一王子なのだ。
失礼があってはいけない。
そんな緊張があるのは、当然だった。
けれど、それだけではない。
――か、かっこいい……。
リゼットは、内心で小さく息を呑んでいた。
アルヴィンはまだ九歳。
自分より二つも年下の少年だ。
それなのに、整った顔立ちに落ち着いた物腰。挨拶をするときの自然な振る舞いにも、妙な気負いがない。
同じ年頃の少年たちと比べても、明らかに雰囲気が違っていた。
もちろん、貴族の子供たちにも容姿の整った者はいる。
しかし、アルヴィンにはそれだけではない何かがあった。
年下なのに、妙に大人びている。
それでいて、偉そうなところはない。
先ほどの挨拶だって、第一王子だからと相手を見下すような様子はまったくなかった。
――これが、王族というものなのかしら?
それとも、アルヴィン殿下が特別なのだろうか。
考えれば考えるほど、リゼットは落ち着かなくなっていった。
「リゼット嬢?」
「は、はいっ!」
突然声をかけられ、リゼットは慌てて返事をした。
「大丈夫? 緊張している?」
「い、いえ! その、少しだけ……」
「そっか。俺もダンスは久しぶり……じゃなくて、初めてだから、一緒に頑張ろう」
危うく余計なことを口にしそうになりながら、アルヴィンは笑顔を見せた。
リゼットの緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。
その気遣いが、また彼女の心を揺さぶった。
「は、はい。よろしくお願いいたします!」
リゼットは頬が熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
◇
「それでは、早速始めましょう」
アデライードが穏やかな声で告げた。
まずは社交ダンスの基本的な考え方から説明が始まる。
ダンスは、単に音楽に合わせて足を動かすものではない。
相手との距離。
姿勢と重心。
音楽の拍子。
そして、相手の動きを感じながら、互いに歩調を合わせること。
どれも社交の場では欠かせない要素なのだという。
アルヴィンは真剣に耳を傾けた。
説明が終わると、まずは一人で姿勢と足運びを確認する。
次に、音楽に合わせて基本のステップを踏む。
そして最後に、リゼットと向かい合った。
「では、実際に踊ってみましょう。最初はゆっくりで構いません。私の指示に従ってください」
「はい」
リゼットが緊張した面持ちで手を差し出す。
アルヴィンはその手を取り、教えられた姿勢を作った。
そして、音楽が流れ始める。
一歩。
二歩。
身体の向きを変え、相手に合わせて足を運ぶ。
初めてのはずのダンスだった。
普通なら、足を踏み違えたり、姿勢が崩れたり、相手との呼吸が合わなかったりするものだ。
ところが。
アルヴィンは、驚くほどあっさりと基本の動きをこなしてしまった。
ぎこちなさはほとんどない。
足運びも滑らかで、相手との距離も適切。
リゼットの動きに合わせながら、自然に次のステップへと移っていく。
曲が終わる頃には、アデライードもリゼットも目を丸くしていた。
「……お見事です、殿下」
アデライードが感心したように口を開いた。
「アルヴィン殿下は、どちらかでダンスを習われていらっしゃったのでしょうか?」
「いや、初めてだよ」
アルヴィンは何でもないことのように答えた。
もちろん、嘘である。
正確に言えば、この世界では初めてなのだ。
前世のアルヴィンは、社交ダンスを習っていた。
大会に出られるほどの腕前ではなかったが、なんだかんだと長く続けていた趣味の一つだった。
前世の自分を振り返ってみても、胸を張って誇れるものはあまりない。
その中では、数少ない自慢できる経験だった。
もちろん、この世界の社交ダンスとは
違う部分も多い。
音楽も違えば、決められたステップや作法も異なる。
それでも、二人で踊るときの感覚は共通していた。
相手の動きを感じ取ること。
次の動きを予測すること。
そして、音楽に合わせて自然に身体を動かすこと。
基礎を少し教えてもらえば、あとは以前の経験を応用できた。
それに、今の身体は前世よりもずっと動きやすい。
武術の鍛錬で体力もついている。
頭で考えるより先に身体が動く感覚が、何とも心地よかった。
――これは楽しいな。
アルヴィンは内心で笑みを浮かべた。
武術とはまた違う面白さがある。
せっかくなら、もう少し踊ってみたい。
「先生、もう一曲お願いしてもいい?」
「ええ、もちろんです。ただし、お相手への気遣いも忘れないでくださいね」
アデライードは微笑みながら答えた。
アルヴィンは元気よく頷いた。
そして、再び音楽が流れ始める。
先ほどよりも軽快にステップを踏むアルヴィン。
足運びにも余裕が生まれ、曲の流れに合わせて自然と動きが滑らかになっていく。
しかし、ここで一つ問題があった。
アルヴィンは、楽しくなりすぎていたのだ。
体力が有り余っている本人は、まったく疲れていない。
だが、相手は違う。
「……っ、はぁ……」
リゼットの呼吸が、少しずつ乱れていく。
アルヴィンの動きについていくため、必死にステップを踏んでいたのだ。
本人は楽しそうに踊っているが、リゼットにとってはなかなかの運動量だった。
「殿下、少しお待ちください」
アデライードの声が、ホールに響いた。
アルヴィンはぴたりと動きを止める。
「はい?」
「ダンスは、ご自身だけが楽しめばよいものではありません。お相手の様子を見ながら、歩調を合わせることも大切です」
穏やかな口調だったが、言葉には確かな重みがあった。
アルヴィンは、はっとしてリゼットを見た。
彼女は頬を赤くし、肩で息をしている。
「あっ……ごめん、リゼット嬢。楽しくて、つい……」
「い、いえ! 殿下が謝られることでは……!」
慌てて首を横に振るリゼット。
しかし、どう見ても疲れている。
アルヴィンは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん。次はちゃんと合わせるよ」
「ありがとうございます、殿下」
リゼットはほっとしたように微笑んだ。
その笑顔を見て、また少しだけ胸が高鳴る。
――やっぱり、かっこいい……。
年下なのに落ち着いていて、気遣いもできる。
王族だからなのか、それとも殿下自身の人柄なのか。
リゼットには、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、今日のダンスレッスンが、思っていた以上に忘れられない一日になりそうだということだった。
アデライードは、満足そうに頷いた。
「飲み込みが早いことは素晴らしい才能です。ですが、社交ダンスで大切なのは技術だけではありません。お相手を気遣い、共に踊ることを楽しんでいただく。それもまた、殿下が身につけるべき作法の一つですよ」
「はい……」
アルヴィンは、少しだけ肩を落とした。
武術なら、自分がどれだけ動いても相手に合わせる必要はない。
けれど、ダンスは違う。
相手がいて、初めて成立するものなのだ。
――なるほど。これはこれで、奥が深いな。
そんなことを考えながら、アルヴィンはリゼットに向き直った。
「次は、ゆっくり踊ろう」
「はい。よろしくお願いいたします、殿下」
再び、音楽が流れ始める。
今度は相手の歩調に気を配りながら、アルヴィンはゆっくりとステップを踏んだ。
初めてのダンスレッスン。
どうやらアルヴィンにとっては、技術を覚えることよりも、相手に合わせることの方が難しい課題になりそうだった。