日本の人口は高齢化による自然減とともに、社会減の時代をも迎えている。

つまり入国する日本人よりも出国する日本人の方が多いのである。

この入国、出国というのはもちろん一時的な旅行ではなく、長期的(3ヶ月以上)な滞在をいう。

これを男女別、年齢別でみると、女性の20代から30代前半で出超となっている。


若い世代では親の経済力による格差とかいろいろなことがいわれるが、海外体験の差というのもけっこう大きいのではないか。いつも不思議に思うのだが、○○大生の親の年収なんてのはニュースになっても、○○大生における帰国子女の割合なんてのがニュースになることはない。18歳までの海外生活体験についてみると、いわゆる一流大学ほどそうした海外体験を有する人が多いのではないか。


企業、官庁などでは有望な社員や職員を海外に留学させたり、海外経験の機会を与える。

そういう場合はたいてい家族も同伴する。

親の経済力があれば子供に良好な学習機会を与えられる場合が多い。

そしてまたいいにくいことだが、親が学習に向いたDNAを持っている場合、そういう資質は子供にも受け継がれている確率が高い。


日本での就職というのはやはり男子にとって有利な面が強い。高学歴で海外生活体験のあるような女性が、日本で望む職につけなかった場合に、海外に活路を求めるという例が案外に多いのではないか。

最近、そうした女性が出超となっているのは、不況下の日本にもどるよりも、現地での生活を優先させようと考えるケースが増えているのではないか。


日本国内で外国人と結婚した日本女性が夫の帰国とともについていくケースもあるだろうけど、こうした例が最近急に増えているとも思えない。

また、経済的に苦しい女性が海外に出稼ぎに行く例が増えているというのも考えにくい。


裁判員制度が開始して1年が経過した。

この制度が導入されてから、性犯罪については厳罰化の傾向があるという。

これを裁判員制度の効果とみるよりも、なぜこんな市民感覚とかけ離れた法の執行が行われてきたのか・・・その方がよほど興味深い。

現行刑法が制定されたのは明治時代に遡る。

逆にいえば現行刑法のベースになっている価値観や規範意識はそんな時代を背景にしているということだ。

当時は、生活範囲は男女により異なり、農村などの地域社会も健在だった。いわゆる「良家の子女」が一人で夜出歩くなどは考えられず、女性が勤め人として外で働くことも例外的な時代である。そんな時代で、なおかつ男尊女卑的価値観が世を覆っていたから、性犯罪などがあっても、被害者の「落ち度」は過剰に強調され、男性に対しては甘いという見方が一般的だったのであろう。

そんなわけで、性犯罪は、強盗などの金銭犯罪に比べて法定刑も軽く、前例踏襲主義の裁判の中でも、現在の社会感覚からすれば軽すぎる判決が続いてきたわけである。

裁判員制度の導入などを待たずとも、本来であればとっくに是正されていなければならなかった・・・。

そしてまた、さらにいえば、裁判員制度の導入は、この手の犯罪の厳罰化をすすめることになったのかもしれないが、一方で犯人にとんでもない武器もあたえてしまったかもしれないと危惧する。

裁判員裁判に不安を感じ、告訴を取り下げた被害者のニュースがときおり掲載されるが、告訴以前に警察への届出をためらう被害者もけっこういるのではないか。

裁判員制度が始まる前から、おそらくこの制度の最大の問題は被害者のプライバシー保護ではないかと思っていたが、不安が的中した感がする。

裁判員の選任にあたっては被害者と同一の生活圏の者があたらないように配慮するというが、今まで同じ生活圏になかったからといって、これからもないとは限らない。ましてや裁判員は裁判所毎に選任されるので、青森の事件の裁判を扱う裁判員もやはり青森の住民から選ばれる。そして裁判員にかかる守秘義務も茶飲み話や飲み屋の話題にまでは及ばないのだから、被害者が不安を感じるのも当然である。

性犯罪は非常に累犯性の高い犯罪である。

裁判員制度に不安を感じ被害者が警察への申告や告訴をためらうとみれば、どうせ第二、第三の犯行をくりかえすであろう。こうした犯罪の被害者こそが、裁判員制度のもの言わぬ最大の犠牲者であろう。

※※

現行の法律では刑法ばかりでなく、民法も長い歴史を有している。

親族相続編は戦後大改正があったが、それでも今の感覚ではどうかと思う条文もある。

直系血族、兄弟姉妹は扶養の義務があるという条文もその一つだ。

戦前の農村社会ならともかく、今の時代に成人した子供の扶養を老親の義務にしたり、兄弟同士の扶養を義務づけるのは非現実的なのではないか。たまたま障害をもって生まれた子どもや事故や病気で生活能力を失った人がいた場合にはその親だけでなく兄弟も一生面倒をみなければならないのだろうか。

道徳的に望ましいかどうかは別にして法律で義務づけまですることには強い疑問を感じる。

それにこうした条文が、生活保護の申請に行けば、音信不通の兄弟にまで連絡をするような運用や、老親がまだ健在であることを理由に申請の受取すらも拒否する「水際作戦」の温床になっているのだとしたら、かなり問題が多い。

公有地に神社を設立するのが違憲であるという判決が出たという。

小さな祠なども含めると公有地の神社というのは全国にあることだろう。

そうした神社をブルドーザーで撤去する・・・なんていう光景も想像しずらいので、今後はお引越しという動きもでてくるのだろうか。

あの秋葉原の語源となった秋葉神社も過去に場所を移っているし、神社のお引越しは別に珍しいことではない。

それにしても違和感のあるのは神社を宗教であるとしか認定したことだ。

宗教といえば宗教なのだが、なんかいわゆる一般にいう宗教というのとも違う。

日本びいきのフランス人のインタビューを読んだことがあるが、その人は日本の文化や伝統を絶賛した後、「神道を信じる」というような発言をしていた。そこまで読んで「ああ、この人はやっぱり外国人なんだなあ」と思ってしまったのはなんとも皮肉だ。たぶん普通の日本人は「神道を信じる」なんていう発想はしない。そしてその「信じる」という言葉を使わないあたりが、神道のいわゆる他の宗教とは違うところなのだろう。宗教というよりもむしろ習俗に近いところもあるといえるのかもしれない。

聞くところによると某市の市庁舎はクリスマスになると、部屋ごとにカーテンを閉じたり、半分開いたりして、ちょうど窓の明かりがツリーの形になるようにするという。でも市庁舎の窓がクリスマスツリーになったからといって、それが政教分離に反するなんていう文句があったという話は寡聞にしてきかない。

北海道で問題とされた神社はかなり大きなものだったのかもしれないのだが、街角の小さな神社や小さな祠はたとえそれが公有地にあったとしてもそっとしておいてもよいような気がする。