「聞く」ができていない、は、哲学対話(主催と参加)は、しばらく尾を引きそう。

あしびきのやまどりのおのしだりおの。かもねむ。

すぐに「聞く」はできない。

なんで?

悲しみや不安や恐怖がたまっているから。

人の話なんか聞いてる余裕ないんだ。

ゴミみたいに見える不満や愚痴や嘆きのしたに

「愛されていない、愛されたい」

がマグマのように煮えたぎっているから。

こわいね。気持ち悪い。45にもなってアイサレタイヨー!って地団駄踏んでる。
でももう仕方ないよね、「聞く」ができるようになりたいんだから理由を明確にしないと。

「聞けないの正体見たりアイサレタイ」だよ。



聞くまえに、わたしのこと、わかってほしい。

わたしを大切に扱ってほしい、尊重してほしい。
うわーーー書くの恥ずかしいね、でもこれ、当然のことなのにね。

そしてね、自分もそうなんだから相手も同じかもしれないよね。特にじぶんの子どもなんか・・・

そう思って家族を見ると、家のなかの空気が、質感が違うようにかんじる。

突然「聞く」はできないけど、
「聞いてほしかったんだ」ってかんじるようになってきた。


・・・おや?

「聞いてほしがってる」をかんじると、
なぜか、「愛されてる」気分になってきたよ?

そして「聞かせてほしい、聞きたい、話してくれるまで待って居よう」って気にもなってきたよ・・・?
あれれ?



言葉で説明するのは控えるけど、
とにかくわたしの「聞けない哲学対話」は終わっていません。

 

聞いたり考えたりするまえに、自分の物語を語る会、やるよ。

12月7日、二村ヒトシさんとご一緒させていただきます。
 

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