「はい、圭介さん」

 

ひとみがピッツァをひと切れ、取り皿に入れてわたしの前に置いてくれた。

 

「ありがとう」

 

わたしはお礼を言ったが、お皿を置いた時にひとみの胸が揺れたのが気になった。

 

服の上からでも、ひとみの胸が大きいのはよくわかる。

 

身体は細いから、EカップかFカップぐらいあるかも知れない。

 

ひとみの胸から視線をそらしたわたしは中川に話しかけた。

 

「そういえば、兵頭さんは帰られたね」

 

「えっ? ああ、オーナーですか?」

 

この店ではみんな兵頭のことをオーナーと呼ぶらしい。

 

「オーナーはここに住んではりますから」

 

中川は天井を指さした。

 

「ここ?」

 

わたしは中川の言葉の意味がわからなかった。

 

「ええ。このビルの一番上の五階がオーナーの家なんですわ」

 

「えっ? ひょっとして兵頭さんって、このビルのオーナーなんですか?」

 

「そうですよ」と、今度はひとみが答えた。

 

「へえー、そうだったんですか。それは知らなかったなあ」

 

わたしは正直驚いた。

 

「前にオーナーから直接お聞きしたんですけどね。オーナーのお父様がむかし、東京で証券会社を経営されてて、このビルはその会社の大阪支店やったそうですわ」

 

中川はビールをひと口飲んだ。

 

「そんで、そのお父様がお亡くなりになった時に、オーナーはこのビルを遺産代わりにもらいはったらしいですわ」

 

「ふーん、じゃあ兵頭さんはお父様の証券会社を継がれたんですか?」

 

「いやいや、そうやないんです。親の会社を継ぐのは嫌やったと言うてはりましたわ。親には頼らずに自分の足で歩きたいからということで、大学を出てから関西の鉄鋼メーカーに就職しはったそうですわ」

 

「へえー、そうだったんですか」

 

兵頭は若い頃から気骨のある人物だったようだ。

 

「そのお父様の証券会社、今はもうないらしいですわ」

 

むかしはたくさんあった中小の証券会社も、業界再編の波でつぶれるか他の会社と合併するかで、消えてしまった会社が少なくないと聞いたことがある。

 

若き日の兵頭は、そういう業界の将来も見通していたのかも知れない。

 

「まあオーナーも、大手の鉄鋼メーカーに長年勤めて、最後は人事担当の役員にまでなりはったそうですから、大出世ですわ。親の会社なんか継がなくて正解やったかも知れませんわ」

 

「なるほどねえ……知らなかったなあ」

 

人に歴史あり、か。中川にいろいろ教えてもらって、兵頭に対する見方が変わった。

 

「わたしも知りませんでした」と、あかりが言った。

 

「ひとみさん、知ってはりました?」

 

「まあ、だいたいは知ってるつもりやったけど、初めて聞く話もあったわ」

 

「そうなんや……中川さんはなんでそんなにオーナーのことよう知ってはるんですか?」

 

あかりが中川に尋ねた。

 

「まあつき合いも長いし、よくオーナーとふたりで競馬場へ行ったりもするからね。話す機会も多いですわ」

 

「そうやったんですか……でもオーナーってやっぱりすごい人なんですね」

 

「まあそうやね。ぼくみたいなしがない公務員には、正直ようわからん人ですわ」

 

話を終えた中川はビールを飲み干した。

 

ちょうどそこへ店長がまた料理をいくつか運んできた。

 

 

 

わたしは中川にもっと兵頭のことを訊いてみたくなった。

 

「ところで中川さん」

 

年下の相手でも「さん付け」で呼ぶのは、経営コンサルタントだった頃からのわたしの癖だ。

 

コンサルタントとしてたくさんのクライアント企業の社員たちと接するなかで、わたしは年下の人でも「さん付け」で呼ぶ習慣が自然と身についた。

 

「オーナーは今日のきさらぎ賞で、ルージュバックの単勝をいくら買ってたんですかね?」

 

わたしも兵頭のことはオーナーと呼ぶことにした。

 

「そうですね……まあおそらく五十万か、ひょっとすると百万かも」

 

「えーっ、百万円もですか?」

 

わたしはこれまで競馬でそんな大金を賭けたことはないし、これからもないだろう。

 

もし兵頭が本当にルージュバックの単勝馬券を百万円も買っていれば、配当金は百七十万円だから、差し引き七十万円も儲けたことになる。

 

「これと決めたレースでは、それくらいの大勝負をする人ですわ、オーナーは」

 

「確かに」

 

中川の言葉にひとみがうなずいた。

 

「毎年税金を払うぐらい、競馬で儲けてるって、よう言うてはるわ」

 

「競馬で税金ですか?」

 

話には聞いたことはあるが、競馬で税金を払う人なんて、わたしはこれまで見たこともなかった。

 

「そんなに儲けるって、オーナーってやっぱりすごい人ですねえ」

 

わたしは素直に感心した。

 

「まあそのへんが、木下くんあたりと感覚が合うところなんですわ」

 

「木下くん?」

 

中川はわたしの知らない人物の名前を口に出した。

 

「この店の常連さんで、デイトレーダーをやってる人です」

 

ひとみが中川の代わりに教えてくれた。

 

「デイトレーダー?」

 

わたしにはデイトレーダーの知り合いはいないが、たぶん家でずっとパソコンの画面を見ながら株を売買する仕事だろう。

 

何となくインドアが好きそうなオタクっぽい男を想像した。

 

「オーナーは木下さんとよく一緒にしゃべってはりますね」と、あかりが言った。

 

「ふたりとも勝負師やからねえ。競馬も株もやりはるから、共通の話題が多いんですわ。木下くんはもともと証券会社の社員やったから、株にも詳しいし」

 

「あー、そっかあ」

 

中川の見立てに、あかりは大きくうなずいた。

 

「オーナーと違って、木下くんは人気薄の穴馬が好きやからねえ。馬券はいつも万馬券狙いの三連単ですわ」

 

中川はその木下という男のこともよく知っているようだった。

 

「おそらく今日のきさらぎ賞でも、木下くんなら穴馬から馬券を買ったと思いますわ」

 

きさらぎ賞は人気通りの決着だったから、穴馬の出番はなかった。

 

「たぶんオーナーは、今日も木下くんが店に来るのを待ってはったんとちゃいますか?」

 

中川の言葉を聞いて、ひとみが急にくすくすと笑い出した。

 

「圭介さん、木下さんはね、競馬で負けた日はこの店に来ないんですよ」

 

ひとみが「さん付け」で呼ぶということは、木下はひとみより年上なのだろうか。

 

「勝ったときだけ店に来て自慢してはりますね」

 

そう言うあかりもけらけら笑っている。

 

「そうそう。木下さんは基本的に自慢しいやからなあ」

 

ひとみとあかりはふたりで一緒に笑った。

 

この様子だと、ふたりともその木下という男には、あまり好意を持っていないようだった。

 

第22話へ続く)


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