隣人を自分のように愛しなさい
マルコによる福音書12章31節
聖書の中には隣人という言葉が出てきますが、普段はあまり耳慣れない言葉かもしれません。以前幼稚園でお話しさせていただいた時、子どもたちに「隣人ってわかる?」と聞くと「おやさい」と答えてくれました。にんじんに聞こえたみたいです。とても可愛らしかったのでよく覚えています。
聖書には隣人についてのイエス様の教えがあります。有名な、善いサマリヤ人というたとえ話なのですが、ある学者の「私の隣人とはだれですか」という問いに対してイエス様が次のようなたとえ話をされます。
ある強盗に襲われた人が道に倒れていました。そこに彼の同胞が通りかかり、その人を見て道の反対側を通っていきました。次に通りかかった同胞も同じように道の反対側を通っていきました。次に彼の同胞でないサマリヤ人が通りかかり、彼を見て憐れに思い、手当てをし、宿屋に連れて行って介抱し、費用の全てを負担しました。この話をされた後で、イエス様は学者に言われました。「だれがこの強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。」
ここでイエス様は、隣人とは「なる」ものであるということを示しておられます。自分にとってその人が隣人かどうかを問うのではなく、助けを必要としている人の隣に行き、隣人となるように促しておられます。隣人を自分のように愛する、ということは人にはなかなかできることではありません。実はこのサマリヤ人はイエス様のことを表しています。このたとえ話に出てくる強盗に襲われた人はユダヤ人であり、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していました。サマリヤ人からすれば、普段自分を軽蔑しているユダヤ人に対して、助ける義理は少しもなかったのです。しかしサマリヤ人はこのユダヤ人を助けました。それは、私たちに対するイエス様の愛を示しています。
私たちが人生の試練によって打ち倒される時、イエス様はそれまで私たちがイエス様のことをたとえ軽蔑していたとしても深く憐れみ、助けてくださるお方です。そして十字架の上で、命をかけて私たちの手当てにかかる費用を全て払ってくださいました。この愛こそ、隣人を自分のように愛する愛です。この愛を子どもたちや皆様とも分かち合っていきたいと思います。