十八歳近くまで生きてくれた愛犬ギズモとの思い出 | ギズモとおいもの部屋

ギズモとおいもの部屋

愛犬のお話、息子の事、音楽、映画、酒、料理、
そして、可愛いぴーちゃんの事など徒然に
書き綴っています。

僕の妻えりんぎのブログです。

このブログを書こうとしたきっかけは、ギズモとの思い出を

書こうとした事でした。 一度挫折しています。(まろ様が)

初心に帰って、可愛いギズモの事を振り返って見るべく

写真を見ると、・・泣けてくる。

ギズモへの心残りやら何やらが思いの層になり、こみ上げて

来るから。    ・・いや、でも、泣くのは止めよう。

彼は、本当に頑張って生きてくれたのだから、それよりも

「ありがとう」と笑って言おう。

チワワは、ワンマンドックと言われる。

その通り、ギズモはまろのことが大好きだった。

まろ、一筋でありました。

私は、雑用係というポジションに甘んじておりましたが。

とにかく、まろを見つめる、ギズモの一心さは、

妻の私と言えども、入り込んでは行けない領域。

とても敵う気がしない。  いや、戦う気も起きない。

いわゆる、一種の雑念の無い一途な思い。

(あなただけよ)  もしくは、(あなたの為なら何時でも死ねるわ)

的なね・・。

妻である私は、いっそ、君のまろに対する強い

愛情というもの全てを

君に委託しても私は後悔しないよ、うん。

        という気にすらさせるという。

 

例えば、まろが珍しく外出する。(仕事かもしくは、麻雀かしら?)

帰ってくるまでギズモは、食べれなくなる。

それどころか、お腹を壊すこともあり、吐いたりもした。

元々、食の細い子なので、これは大変と病院に行く。

とりあえず、ポカリスエットだけでも飲ませるといった感じ。

まろが帰ってくると、ベッタリくっついて離れない。トイレにも付いていく。

私が近づくと、間に入って明らかに、(俺の男に何をする)目線にて、

おいそれと、まろの肩に触れることすらはばかれる。    

でも、いいの、たしかにまろは君のもの。断言する。

君の思いは強かった。   本当にありがとう。

 

妻である私は、そこに、ある種の安堵感を覚える。

ギズモの人生において、まろの存在が支えであり、

そして、先を照らす道標とも言える光であり、

カリカリとする味気ないフードはさておき、口直しの湯がいたささみよりも、

遥かに、精神を満足させ、また精神を安定させるものがあったという

その事実が私にとってこの上もない慰めとなっている。本当。

そりゃ、そうよ。何も無かったら、哀しいもの。

車の中で待たしておいた、罪悪感なんて、何時までたっても

消化しない。  ギズモの哀愁にくれるこの瞳をどうして

忘れられようか。

 

そう思うと、ああ、まろがいて本当に良かった

と心からそう思うのである。

 

どちらかと言うと、自分を人間と思ってる風でもあったギズモは

とても、自制心に長けている子でもあったのだが、ある日のこと

この、可愛らしいつぶらな瞳のポメラニアンに彼は、

初めて犬として恋心を抱くのであった。

すでに、老年期であったギズモであるが、年若き乙女に

年甲斐も無くよろめく・・いや、ときめく気持ちは分からなくもない。

ただ、彼はまろという人間から離れて、初めて犬である認識を新たに

心ときめかせたのであった

(画像悪いのですが)(この子は、どうしているのかな?元気?)

彼女は、追いかけても、追いかけても

ひょいひょいと身軽にギズモをかわし

初老にして、初恋というギズモの

恋心は、季節はずれの秋空に

まだなお青く咲かせる朝顔の花のように

それは、清々しい朝の気配に透明な朝露を

密かに緑の葉先に転がしていく様にもにて

儚くも消え行く恋なのでありました。

 

人間界でもありますね。

追いかければ、追いかけるほど

叶わぬ恋ってものが。    たぶん。

 

こうして、我が愛犬ギズモは、その生涯全てを

まろ様に捧げたのでありました。     

 

蛇足ですが、常々我が夫であるまろ様にはこう言っている。

 

「私は、男というものは、あなた以外なんの興味も抱かないわ。」

と。       

 すると、まろは嬉しそうに「それ、ブログで言ってよ!」

と。    

 「いいよ、本当のことだし。」  と返す。

 

まろは男3兄弟。私には兄がいる。息子二人に、愛犬二人も男の子。

「もう、男はいらん。懲り懲り。」とつぶやくと

まろは、「ちょっとねぇ、えりんぎ・・それ違うんじゃない?」

 

・・・    ちがうか・・?

               ?